07 取り残された少年
天衡十六年 晩秋
ヨハルとイリの出会いから六年後。
天嶺の麓に広がるノルヴァの森は、すっかり秋の色を失いつつあった。そんな森の外れにある小さな村、エルン。
村人たちが冬支度に追われるなか、一軒の家だけがしん、と静まり返っていた。
薄暗い家の中では、十歳のセナが寝台に横たわっていた。眠っているわけでもなく、ただ虚ろな目で天井を見つめている。
そっと木戸が開き、隙間から同い年の少女、リネが顔を覗かせた。細長い日差しが差し込み、寝台に横たわるセナの顔を照らす。
「セナ、起きてる?」
「…………」
「……入るよ?」
返事はない。それでもリネは慣れた様子で家へ入ると、後ろ手に木戸を閉めた。
腕に提げた小さな籠には、湯気の立つ木椀と、布に包んだ黒パンが入っている。木椀の中では、細かく裂いた干し肉と根菜がとろりと煮込まれていた。
「これ、食べてね。温まるから」
「…………ああ」
セナは天井を見つめたまま答えた。
リネは木椀と黒パンを机の上に置く。その隣には、昨夜持ってきた肉の煮込みが、手つかずのまま残されていた。冷え切った汁の表面には、白い脂が薄く固まっている。
「……昨日の夜ごはん、食べてないの?」
「うん。腹、減ってなくて」
「またそれ?」
「…………」
リネは何か言いたげにセナを見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「ねぇ、セナ。今日ね、村に牙討様が来るんだって」
「…………ふぅん」
「ふぅんって……それだけ?」
「ああ」
「それでね、その牙討様、私たちと同じくらいの歳の女の子を連れてるんだって!」
「…………」
「ねぇ、どんな子なんだろうね?」
「……知らないよ」
セナは寝返りを打ち、リネに背を向ける。
「リネ、ごめん。今はあんまり話したくないんだ」
「……今はって、いつまで?」
セナの眉がわずかに動いた。
「もうずっとそう。ごはんだって、私が持ってこなかったら何も食べないし、外にも出ないし……」
「放っておいてくれよ」
「放っておけないよ!」
思わず声を張り上げたリネ自身が驚いたように口をつぐむ。
それでも、今度は目を逸らさなかった。
「このままじゃ、セナまで死んじゃうよ……」
「……話したくないって言ってるだろ!」
セナは勢いよく上半身を起こした。
「もういいだろ、リネ!」
睨みつけられ、リネの肩がびくりと跳ねる。その瞳にじわりと涙が滲んだ。
セナは一瞬だけ顔を歪めたが、謝ることはできなかった。
「……牙討様なら」
俯いたリネが、小さく呟く。
「セナのお父さんとお母さんを殺した人喰も、倒してくれるかもしれないよ」
セナの顔から、表情が消えた。
「……無駄だ」
「え?」
「無駄だよ!」
セナは寝台の上で拳を握り締める。
「父さんも母さんも、何も出来ずに殺されたんだ! あんな奴に勝てるわけないだろ!」
「でも、牙討様は──」
「どうせそいつらも……喰われて終わりだ!」
リネの言葉を遮るように、セナは叫んだ。
「もういいだろ! 僕のことは放っておいてくれよ!」
しばらく、家の中に沈黙が落ちた。
やがてリネは袖で目元を拭うと、机の上の食事を一度だけ見た。
「……ちゃんと食べてね」
それだけ言い残し、家を出ていった。
再び薄暗くなった部屋で、セナは俯いたまま拳を握っていた。
❖
セナは幸せだった。
つい二十日前までは。
優しい母と、頼れる父。三人で山へ入り、食べられるものを集めて家へ帰る。その日も、いつもと変わらない一日のはずだった。
秋の山は恵みが多い。木の実や根菜、それに色とりどりの茸が、冬を前にした村人たちの貴重な食料となる。
「あった!」
セナは落ち葉の隙間から茸を引き抜くと、少し離れたところにいる母のもとへ駆けていった。
「見て! いっぱい取れたよ!」
「わぁ! すごいわね! ありがとう、セナ」
母のイエナは嬉しそうに笑うと、セナの頭を撫でた。
その少し先では、父のカイが集めた食料を荷橇へ積んでいる。
「こりゃあ、今日はご馳走だな」
「僕がいっぱい見つけたんだよ!」
「そうかそうか。なら、セナに一番でかいのをやらないとな」
「ほんと!?」
カイが笑い、イエナも笑う。
そのときだった。林の奥から、何かを削るような音が聞こえた。三人の声が止まる。
ゴリ……ゴリ……ゴリ……と硬いものが木の幹を削っているような、低く不気味な音だった。
「ねぇ、あなた」
イエナが林の奥へ目を向ける。
「あの音、何かしら?」
「ああ……鹿の角擦りだろう」
「そうかしら……」
イエナの顔から、先ほどまでの笑みが消えていた。
「ねぇ。人喰じゃないわよね?」
カイは一瞬だけ林の奥を見つめ、それから笑い飛ばした。
「ははは! 心配ないって。もう秋だぞ? この辺りに人喰なんて残ってないさ」
それは、カイが無知だったからではない。
この土地で暮らす者なら、誰もがそう考える時期だった。
夏のあいだ山の中腹や麓で獲物を狩っていた人喰は、秋になると山頂付近へ移っていく。そのため、この季節に山の中腹で人喰と出くわすことは滅多にない。
「鹿なら有難い。肉も頂いて帰るか」
「あなた、本当に気をつけてね」
「ああ。すぐ戻る」
心配そうなイエナをよそに、カイは狩り道具を手に林の奥へと入っていった。
木々の間にその背中が消えていく。セナはしばらく父の消えた方を見つめていた。
「ねぇ……父さん、大丈夫なの?」
「大丈夫よ」
イエナはセナを抱き上げ、荷橇の上に乗せる。
「父さんは強いもの!」
「……うん」
母の笑顔を見て、セナも安心した。
やがて、林の奥から足音が聞こえてきた。落ち葉を踏みしめる、ゆっくりとした足音。
「……イエナ……セナ……」
聞き慣れた声だった。
「あなた!」
「父さん!」
二人の顔が明るくなる。木々の間から、カイが姿を現した。やはり鹿がいて、仕留めるのに手間取っただけなのだろう。
セナはそう思った。
「……逃げろ」
カイの声は震えていた。
「え?」
「逃げろ……やつだ……」
そのまま、カイの身体がぐらりと傾き、地面へ倒れた。どさり、と湿った土の上に転がる。
木の陰に隠れていた右半身が、そこで初めて露わになった。
右胸から肩にかけて、大きく抉り取られている。右腕は無くなっていた。
「きゃあああああっ!」
イエナの悲鳴が山に響いた。
「……父さん?」
セナは動けなかった。地面に倒れた父を見つめることしかできない。
林の奥で、何かが地面を踏んだ。ドッ、ドッ、ドッと重い足音が急速に近づいてくる。木々の隙間を、銀色の鬣が揺れた。巨体が枝を弾き飛ばしながら姿を現す。狼のような顔。耳元まで裂けた口。その口元から、赤い血がぼたぼたと滴っていた。
──人喰だ。
僅か一瞬で、そこにあった世界は、跡形もなく壊れていた。
地面には、胸を抉られた父が倒れている。そして人喰は、母へ向かって地を蹴った。
「セナ!」
イエナが荷橇に手を掛ける。
「母さん!」
「掴まって!」
ドン、と強く押された。荷橇が傾斜へと滑り出す。
「母さん!」
セナが叫ぶ。
その瞬間、人喰の長い口がイエナの首筋を挟んだ。
荷橇は勢いを増し、山道を駆け下りていく。
「母さん! 母さん!」
セナは叫び続けた。母の姿はどんどん小さくなっていく。倒れた父。母に覆い被さる銀色の巨体。遠ざかっていく景色の中で、それだけが、いつまでも目に焼き付いていた。
荷橇が突き出た岩を踏み、大きく跳ねる。身体が少し宙に浮いた。セナは必死に荷台へしがみついた。
もう一度、激しく跳ねる。頭を打ったのか、何が起きたのかも分からなかった。視界が滲み、山道も木々も一つに混ざっていく。
やがて、セナの意識は途切れた。
❖
思い出すだけで、背中に冷たい汗が滲む。
セナは寝台の上で膝を抱えた。
あの日から、村人たちは人喰の襲撃に怯え、牙討を呼ぶために奔走していた。誰もが次の犠牲者を出さないことに必死だった。両親を失ったセナの悲しみに、寄り添う者はいなかった。
──ただ一人、リネを除いては。
リネだけは毎日食事を運び、何も話そうとしないセナのそばに居続けてくれた。
それなのに、ひどいことを言ってしまった。
(謝らなくちゃ)
けれど、今の自分をリネに見せるのが嫌だった。
あの人喰を思い出すだけで、身体が震える。
いつまでもこうしているわけにはいかない。
そう思っても、セナは家の外へ出ることさえできなかった。




