06 春の光
日が沈むと、気温は一気に下がった。
ヨハルは街道を少し外れ、風を遮る木々の間に野営場所を決めた。
雪を退けて厚手の布を敷き、集めた枯れ枝に火を焚く。
焚き火の上では、鹿肉と根菜を入れた鍋がぐつぐつと煮えていた。
「…………」
そばに座るイリの鼻が、ひくひくと動く。
「いい、におい」
「鹿の肉だ。食べたことはあるか?」
「……しらない」
「そうか」
ヨハルは鍋をかき混ぜる。
「少し塩も入れてある」
「しお?」
「それも知らんか」
「うん」
「食べればわかる」
十分に煮えたところで、木の器によそってイリの前へ置いた。
「熱いから、気をつけろ」
イリは白い湯気を嗅ぐと、迷わず肉へ手を伸ばした。
「あ、待て!」
「ぎゃっ!」
掴んだ肉を反射的に放り出す。ぼちゃん、と汁が跳ねた。
「だから言っただろう……熱いと」
「う、う……」
イリは赤くなった指先を見つめ、それから警戒するように肉を睨んだ。
ヨハルは眉を寄せる。
(煮た肉を食べたことがないのか?)
人喰と人間の間に生まれたこの子が、これまでどんな暮らしをしてきたのか。ヨハルには、まだ分からないことばかりだった。
「手を見せてみろ」
差し出された指先を確かめる。
「少し赤くなっただけだ。大丈夫だろう」
「……にく」
「逃げはせん。これを使いなさい」
ヨハルは木製の掬いを渡し、自分の器から肉を一切れ取った。
「こうして冷ます」
ふう、ふう、と息を吹きかけてから口へ運ぶ。
イリも見よう見まねで肉を掬い、顔を近づけた。
大きく息を吸い込み──
「ブーッ!」
汁が勢いよく飛び散り、ヨハルの頬にもぴしゃりとかかった。
「…………」
ヨハルは無言で頬を拭う。
「……まったく」
「…………?」
「そんなに強く吹かなくていい。もう一度だ」
今度は慎重に、
「ふー……ふー……」
「そうだ」
恐る恐る口へ運ぶ。
もぐもぐと咀嚼していたイリの杏色の瞳が、ぱっと見開かれた。
「……うまい」
「そうか」
ヨハルは濡れた頬をもう一度拭いながら、小さく笑った。
❖
食事を終えた二人は、焚き火を挟むようにして敷いた布の上へ横になった。夜空には月が浮かび、淡い光が雪原を照らしている。
月明かりと炎の揺らぎに包まれながら、二人の間に静かな時間が流れた。
ぱち、ぱち、と薪の爆ぜる音が響く。
ヨハルは火の向こう側にいるイリをちらりと見る。
イリは仰向けに寝転び、額の傷を指先で何度も撫でていた。
「まだ痛むのか?」
イリは小さく首を横に振った。
「…………ヨハル」
「なんだ?」
返事をしてから、ヨハルはふと気づく。
初めてだったのだ。イリが、自分の名を呼ぶのは。
イリはしばらくの沈黙のあと、震えるような声で囁いた。
「ヨハル。オレ……わるいやつ?」
ヨハルは、目を見開いた。
ぱちん。
静寂の中で、焚き火がひときわ大きく爆ぜた。
ヨハルは今日の出来事を思い返す。
四つ足で走り、歯を剥いて唸り、攻撃されれば噛みつく。イリにとっての当たり前は人の中では通じなかった。それを今日、初めて思い知ったのだろう。
「イリ、お前は悪くない」
炎へ枯れ枝を足しながら答える。
イリの瞳が、焚き火の向こうからヨハルを見る。
「……ほんと?」
「ああ。だがな、イリ」
「ん?」
「お前は獣としてではなく、人として生きるべきだ」
「……ひととして?」
「ああ」
ヨハルは炎を見つめながら、静かに続けた。
「人には人の暮らし方がある。人と接するときの決まりもな。お前はまだ、それを知らない」
「…………」
「大丈夫だ。ワタシが、ちゃんと教える」
イリはしばらくヨハルを見つめていた。
「……うん」
そして、小さく頷く。
それからイリはヨハルに背を向け、身体を丸めた。
しばらくすると、小さな寝息が聞こえ始める。
ヨハルは炎越しに、その小さな背中を眺めていた。
やがて自らも目を閉じる。薪の爆ぜる音だけが、夜の静寂に溶けていった。
❖
「ははっ、こいつ、光ってる!」
翌朝。イリのはしゃぐ声に、ヨハルは目を覚ました。
「…………何だ」
身体を起こし、声のする方を見る。
朝靄の残る草地をイリが四つ足で駆け回っていた。その周囲を、小さな光の粒がいくつも飛び交っている。
白銀の髪の周りを舞い、淡い光を瞬かせながら、ふわふわと空へ昇っていく。
「雪光虫か、珍しいな」
ヨハルが呟くと、イリが振り返る。
「なぁ、ヨハル! こいつ、きらきら!」
イリは嬉しそうに叫ぶと、再び光を追いかけ始めた。
雪光虫は、冬の間を土の中で過ごし、雪解けとともに地上へ這い出す。
冷えた土と雪を抜け、地上へ辿り着けるものは僅かしかいない。生き延びたものだけが仲間を求め、その小さな身体を光らせる。
北の地では、その光が見え始めれば、長い冬も終わりだ。
「待てー!」
イリが光へ飛びかかる。雪光虫はするりとその手を逃れ、離れた場所へ舞っていく。すぐさま四つ足で追いかけた。
「…………ふっ」
その姿を眺めていたヨハルは、思わず笑いが漏れた。
「ふはは。まずは、その走り方から直さんとな」
イリは聞いていない。白銀を振り乱しながら草地を駆け回っている。
──どさり、と遠くの山から大きな音が響いた。木々に積もっていた雪が、朝の陽射しに緩んで落ちたのだ。
ヨハルは顔を上げる。
頬を撫でていった風は、昨日よりも僅かに暖かい。
「……そろそろ春か」
小さく呟く。
その視線の先では、イリが白銀の髪を振り乱し、春の光を追いかけていた。
第一章 ヨハルとイリ 完
第一章「ヨハルとイリ」は、これにて完結です。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
次章からは六年後の物語が始まります。
成長したイリと、新たな主人公・セナの物語をお楽しみいただければ幸いです。




