05 アイサとイリ
仮宿へ戻ってからも、イリは何も話さなかった。
窓枠に腰掛け、先ほどまで子供たちと遊んでいた小川をじっと眺めている。
「イリ、額を見せろ」
「…………」
イリは振り返ると、両手で白銀の前髪を持ち上げた。
「うむ。そのまま押さえていなさい」
ヨハルは麻袋から薬草の葉を数枚取り出した。
手のひらで擦り合わせると、潰れた葉から青臭い汁が滲み出る。それを指先に取り、イリの額の傷へそっと塗った。
「これで傷口が早く塞がる」
「……っ」
イリがわずかに眉間へ皺を寄せる。
「染みるか?」
「……うん」
「少し我慢すれば、すぐに良くなる」
「うん」
手当てを終えると、ヨハルは旅支度を始めた。
小屋を出て、外に停めてある荷橇へ食料や毛布を積み込んでいく。
荷橇は、牙討が長旅で使う運搬具だ。雪のない道では二つの車輪で荷を運び、雪山では車輪を畳んで橇として使うことができる。
人喰の毛皮や牙を持ち帰る牙討にとって、なくてはならない道具の一つだった。
「食べ物をたくさん頂いたぞ」
荷を積みながら、ヨハルが言った。
「人喰を討伐した礼だそうだ。帝国への貢納もあるだろうに。有難いことだ」
「…………肉?」
窓枠に座っていたイリが、ほんの少しだけ顔を上げる。
「そうだ。肉もある」
「…………」
「今夜は野営になる。肉を焼こう」
「……うまそう」
「ふふっ」
ヨハルは小さく笑いながら、革紐で荷物を荷台へ括りつける。
やがて支度を終えると、ヨハルは窓の向こうのイリへ目を向けた。
「日が落ちる前に出るぞ」
「…………」
「皆への挨拶は済ませたか?」
「いらない」
「…………そうか」
ヨハルはそれ以上、何も言わなかった。イリは再び小川へ顔を向ける。
朝、あの場所で子供たちと石を投げて遊んだ。今はもう誰もいない。窓から差し込む日の光が、イリの杏色の瞳を照らしている。
その瞳がほんの少しだけ滲んで見えたことに、ヨハルは気づいていた。
❖
旅支度を終えた二人は、村の外れへ向かった。
家々の間を抜けていくにつれ、人の往来は少なくなり、やがて道の両脇に並んでいた家も途切れる。
その先には、踏み固められた一本の小道が伸びていた。
道は緩やかな上り坂となって村を離れ、遠くに見える針葉樹の森へと続いている。道端にはところどころ雪が残り、その下から黒い土と枯れ草が顔を覗かせていた。
村と外を隔てる門や柵があるわけではない。ただ、最後の家を越えれば、そこから先はもう山野だった。その境目にある大きな切り株のそばに、ヨハルの荷橇が停められている。
二つの車輪を備えた細長い木製の荷台には、村人から受け取った食料や毛布、旅道具が革紐で括りつけられていた。その上には、昨日仕留めた人喰の毛皮を詰めた麻袋も乗せられている。
ヨハルが荷橇の柄を握ろうとしたところで、背後から声が飛んだ。
「牙討様!」
振り返ると、見送りのために集まった村人たちが歩いてくる。
「本当にありがとうございました」
「もう行かれてしまうんですかい?」
「もう一晩くらい、ゆっくりしていけばいいのに」
「いや、次の仕事があるのでね」
ヨハルは荷橇から手を離し、村人たちへ向き直った。
「世話になった。食料まで分けてもらって、感謝する」
「何をおっしゃいます! 牙討様が人喰を仕留めてくださったおかげで、また安心して山へ入れます」
「お気をつけて!」
「また近くへ来たら、いつでも寄ってくだせぇ!」
「ああ。その時は世話になる」
惜しむ声に見送られながら、ヨハルは一人ひとりに別れの言葉を返していく。
その傍ら。
荷橇に積まれた食料や毛布の隙間から、二つの杏色の瞳が覗いていた。
イリだ。
積み荷の間に身体を潜り込ませ、村人たちの様子をじっと窺っている。
「…………」
誰かと目が合いそうになるたび、すっと顔を引っ込める。そんな中、一人の男の子が人垣の後ろから姿を現した。
アイサだった。
「…………」
アイサはしばらくその場でもじもじしていたが、やがて意を決したように荷橇へ近づいていく。
積み上げられた荷物を覗き込む。
「……いる?」
さらに顔を近づけると、食料を詰めた麻袋と毛布の間に、白銀の髪が見えた。その奥から、イリがじっとアイサを見ている。
「あ、あのさ……」
アイサは気まずそうに視線を逸らした。
その腕には、イリに噛まれた傷を覆う布が巻かれている。
「石投げて……ごめんな」
「…………」
イリは何も答えなかった。
ただ、荷物の隙間からゆっくりと両手を持ち上げる。指を鉤爪のように曲げ、獣が爪を立てるような動作をした。
「グルルルー……」
「…………」
アイサは困ったように頭を掻いた。
「……じゃあな」
それだけ言うと、くるりと背を向け、村人たちの中へ戻っていった。
「…………」
イリはしばらくその背中を見つめていた。
やがて爪を立てていた両手を下ろし、再び荷物の間へ身体を沈める。
「それでは、行く」
ヨハルが村人たちへ最後に頭を下げた。
「道中お気をつけて、牙討様!」
「ああ」
ヨハルは二本の柄を握り、身体を前へ傾けた。
がらり、と荷橇の車輪が回る。
踏み固められた小道を、荷橇がゆっくりと進み始めた。家々が遠ざかる。見送る村人たちの声も、次第に小さくなっていく。
荷物の隙間から顔だけを覗かせたイリは、いつまでも村の方を見ていた。
村人たちは手を振っている。誰もが、ヨハルを見ていた。
イリに向けて手を振る者は、一人もいなかった。




