04 イリと村の子供たち
イリは、手にした薪の先端で揺れる炎をじっと眺めていた。ぱちぱちと音を立てながら赤い炎が燃え盛っている。
「イリ。すぐに暖炉へ戻しなさい」
「…………」
聞いているのか、いないのか。イリは炎を見つめたまま、動こうとしない。
「イリ」
もう一度、少し強く呼ぶ。するとようやくイリが顔を上げた。そして一歩、さらに一歩、燃える薪を手にしたままヨハルへ近づいてくる。
「イリ!」
ヨハルはすぐさま距離を詰め、イリの手から薪を奪い取った。そのまま暖炉へ放り込む。
火の粉がぱっと舞い上がった。
「あれは遊ぶものではない。触れれば火傷する! わかったか?」
「…………」
イリは、きょとんとしていた。
怒鳴られたことが理解できていないのか、丸い目でヨハルを見上げている。
「返事をしなさい」
やがて、イリの口元がふっと緩んだ。
「あはっ」
「……?」
「怒った! 怒った!」
イリはけらけらと笑い始めた。
どうやら、怒鳴られたことそのものが面白いらしい。ヨハルは深く息を吐き、額を押さえた。
「まったく……なんなのだ、お前は」
「はははは!」
暖炉では、先ほどの薪が何事もなかったかのように燃えていた。
❖
翌朝。
ヨハルが目を覚ますと、イリの姿がなかった。
「……イリ?」
隣に敷かれた寝床へ目を向ける。
昨夜、イリが包まっていた毛布を捲るが、そこに小さな身体はない。
「どこへ……」
ヨハルは立ち上がり、小屋を出た。朝の柔らかな陽射しが村を照らしている。鳥の鳴き声に混じって、さらさらと水の流れる音が聞こえた。
音の方へ目を向けると、小川のほとりに数人の子供たちが集まっている。その中に、白銀の髪を見つけた。
「イリ……」
ヨハルは連れ戻そうと一歩踏み出し──思いとどまった。
子供たちは木の棒を使って、地面に大きな丸を描いていた。
少し離れた場所から石を投げ、その丸の中へ入れて遊んでいるらしい。
「あなたもやってみて」
一人の少女が、小石をイリへ差し出した。
「…………」
イリは受け取った石をしばらく眺める。
それから周囲の子供たちを真似て、丸へ向かって放った。
ころころと転がった石が、丸の内側で止まる。
「そうそう!」
「入った!」
子供たちが楽しそうに笑う。
イリは彼らの顔を不思議そうに眺め、それから丸の中に転がった自分の石へ視線を戻した。
やがて、足元からもう一つ石を拾い上げると、同じ場所へ向かって放った。
ヨハルはその様子をしばらく眺めていた。やがて、ふっと小さく笑う。どうやら、心配する必要はなさそうだ。
ヨハルは声をかけることなく踵を返し、村の集落へ向かった。牙討には、人喰を仕留める以外にもやるべきことがある。
周辺に残された痕跡や目撃情報を集め、次に向かう土地を決めることも、その一つだった。
❖
「ここからさらに北の村でも、人喰の目撃情報があるんでさ」
質素な卓を囲み、村の猟師たちが広げた地図を覗き込んでいた。
「そいつは、牙討様が昨日討ち取った奴じゃねぇのか?」
「いや、ちげぇ」
別の猟師が地図の一点を指で叩く。
「目撃された日から考えると場所が離れすぎてる。いくら人喰でも、一日で移動できる距離じゃねぇ」
「なら、別の個体か」
ヨハルが言うと、猟師たちの表情が曇った。
「……そうなりますな」
「昨日の奴は、まだ若かった」
ヨハルは山で遭遇した人喰について、猟師たちへ詳しく伝えた。
体格。毛色。残された痕跡。そして、実際に槍を交えた際の動き。
「未成熟の個体で、そんなに強いんですかい……」
猟師の一人が顔を引き攣らせる。
「ああ。それと、妙なことがある」
「妙なこと?」
「あいつは、ワタシたちのあとを追っていたらしい」
猟師たちが顔を見合わせる。
「……尾行されてたってことですかい?」
「恐らくな」
ヨハルは戦闘後のことを思い返した。
人喰を仕留めたあと、周辺の雪原を調べていた時のことだ。自分たちの足跡に沿うように、別の大きな足跡が続いているのを発見した。
人喰は、二人の存在に気づいたうえで距離を取り、後を追っていたのだろう。
「なんでぇ……化け物が余計な知恵まで付けやがって……堪んねぇでな」
猟師が吐き捨てる。
「…………」
ヨハルは答えなかった。
イリの父親もそうだった。近頃の人喰は、本能のままに人間を襲うだけではない。相手の行動を読み、機を窺い、自らに有利な状況を作ろうとしている。
「おっそろしいなぁ……」
一人の猟師が、地図を見つめたまま呟いた。
「あの殺傷力で、賢くまでなられちゃあ……手に負えねぇや」
誰も、その続きを口にしなかった。
重苦しい沈黙が卓を囲んだ。
その時、部屋の扉が勢いよく開いた。
「牙討様!」
一人の村人が、息を切らして立っていた。
「すみません、来てください! 子供たちが……」
その言葉に、ヨハルの脳裏を嫌な予感が掠める。
「どこだ?」
ヨハルは返事を待つより早く席を立ち、小屋を飛び出した。
案内されたのは、先ほど子供たちが遊んでいた小川のほとりだった。
すでに何人もの村人が集まっている。
その中心で、男の子が大声を上げて泣いていた。
「うわああああん!」
少し離れたところには、立ち尽くすイリの姿がある。
「イリ!」
駆け寄ったヨハルは、その顔を見て眉を寄せた。
白銀の前髪の隙間から、一筋の血が流れている。
「何があった?」
「あのね……」
一人の少女がおずおずと口を開いた。今朝、イリに石を渡していた子だ。
「みんなで石囲いして遊んでたの」
「ああ」
「でも……アイサがこの子を見てね、獣みたいだって言ったの」
少女が泣いている男の子へ目を向ける。どうやら、その子がアイサらしい。
「石を取りに行くときに……この子、四つん這いで走ってたから。それを見て、獣みたいだって……」
「ねぇ、こいつ、変だよ!」
別の男の子が声を上げた。
イリを指差す。
「人間なのに四つ足で走るんだ! まるで狐憑きだ!」
「こら! 変なことを言うんじゃありません!」
そばにいた大人に叱られ、男の子は口を噤んだ。
「それで……?」
ヨハルが続きを促す。
「アイサも、この子が狐憑きだって言って……それで、石を投げたの」
「それが、おでこに当たって……」
「…………」
ヨハルはイリの前にしゃがみ、その白銀の前髪をそっと持ち上げた。
額に小さな傷ができている。
血は出ているものの、傷自体は深くなさそうだった。
「痛むか?」
「……ううん」
イリは小さく首を横に振る。
いつものように歯を剥くことも、唸ることもしない。
俯いたまま、両手をぎゅっと握りしめていた。
「それでね……」
少女の声が震えた。
「そのあと、その子が、アイサに飛びかかって……腕を噛んだの」
「……なに?」
ヨハルは泣いているアイサへ目を向ける。
その腕には、くっきりと歯形が残っていた。皮膚は裂け、血がぽたぽたと地面へ滴り落ちている。まるで、獣に噛みつかれたような傷だった。
「みんなで止めたんだけど……」
少女の目にも、徐々に涙が浮かぶ。
「その子、ぜんぜん離してくれなくて……」
ヨハルは何も言わなかった。
周囲を見渡す。
子供たちは親の陰に隠れ、怯えた目でイリを見ている。
大人たちもまた、誰一人としてイリへ近づこうとはしなかった。
「…………」
ヨハルは立ち上がった。
「みんな、怖い思いをさせて悪かった」
「牙討様……」
「ワタシたちはすぐに村を出る」
村人たちがざわめく。
「そ、そんな! 牙討様はもう少しゆっくりされても良いのに……」
「いや……」
ヨハルは静かに首を振った。
「元々、長居する予定ではないのでね」
それ以上は何も言わなかった。
イリの背中へそっと手を添える。
「行くぞ、イリ」
「…………」
イリは俯いたまま歩き出した。二人が人垣の間を抜けていく。その背中へ向けられる村人たちの視線を、ヨハルは振り返ることなく受け止めていた。
ふと、隣を歩くイリへ視線を落とす。
イリは、地面に描かれた大きな丸をじっと見つめていた。




