03 こいつ、わるいやつ?
「見たくなければ、離れていろ」
ヨハルは人喰の皮を剥ぎながら、イリへ言葉を投げた。
人喰を倒した牙討は、その皮を剥ぎ、牙を抜いて持ち帰る。分厚い皮は貴重で丈夫な素材となり、抜いた牙を連ねた首飾りはその牙討が仕留めてきた獲物の数と強さを示す証となる。
その工程を、イリは目を逸らすことなく凝視していた。父親が人喰だったイリにとって、決して気分のいい光景ではないだろう。
「イリ、見るな」
ヨハルはもう一度、今度はイリの顔を見て言った。
それでも視線を逸らそうとしないイリに、ヨハルは血に濡れていない方の手を伸ばし、その目元を覆う。するとイリは、その手から逃れるようにすっと身を屈めた。
その場にしゃがみ込み、横たわる人喰の亡骸をじっと見つめる。
「こいつ……わるいやつ?」
ヨハルの手が止まった。
「お前……人の言葉がわかるのか?」
イリの口から、遠吠えや唸り声ではなく人の言葉を聞いたのは、これが初めてだった。
「なぁ、わるいやつ?」
「…………」
ヨハルは答えず、再び手を動かした。刃を入れ、皮を剥いでいく。しばしの沈黙のあと、ゆっくりと口を開いた。
「そうだな。こいつは……悪いやつだ。人を襲うのだから」
イリが顔を上げる。
「……だから、ころす?」
「そうだ。こいつから人々を守るために殺す。それが牙討の業だ」
イリはしばらく人喰の亡骸を見つめていた。
やがて、その杏色の瞳がゆっくりとヨハルへ向く。
「おまえは……わるいやつ?」
「──!?」
ヨハルは手を止めてイリへ振り向く。
イリの瞳に恐れはなかった。怒りも悲しみもない。
ただ、自分の前にいる男が敵なのか否か、それだけを見定めるように、じとりと見つめている。
ヨハルはしばらくその瞳を見返していたが、やがて手元へ視線を戻した。
「“おまえ”ではない」
「……?」
「ヨハルだ」
それだけ答えて、再び刃を動かした。
❖
麻袋に戦利品を詰め込み、ヨハルとイリは山を下りた。二人がノバの村へ帰る頃には、日はすっかり傾いていた。
「牙討様だ!」
ヨハルの姿を見つけた村人が声を上げる。
「牙討様が戻ったぞ!」
その声を聞きつけ、家々から次々と人が飛び出してきた。あっという間にヨハルの周囲へ人だかりができる。イリはその勢いに押されるようにヨハルの背後へ隠れた。
「フー……フー……」
腰を落とし、ヨハルの外套を掴みながら、集まった村人たちを睨みつける。だが、誰もそんなイリのことは気に留めてもいない。
「あ、あの……牙討様」
人垣を割って、一人の老人が進み出た。この村の長だ。
「山に、人喰はおったのでしょうか……?」
ヨハルは答える代わりに、肩に担いでいた麻袋をそのまま地面へ落とす。
どさり、と重い音がした。袋の口が緩み、中から灰褐色の毛皮が覗く。
「……おお」
誰かが声を漏らす。
「やった……!」
「人喰の皮だ!」
「これでまた山へ入れる!」
歓声が弾けた。
男たちは拳を突き上げ、女たちは胸を撫で下ろす。中にはヨハルへ何度も頭を下げる者もいた。
「今夜は祝いだ!」
沸き立つ村人たちの中で、ヨハルは少しだけ微笑んだ。
その背後。イリは、袋から覗く毛皮と周囲の人間たちをじっと見つめていた。つい先ほどまで生きていた人喰の毛皮。それを囲んで、みんなが笑っている。
やがて、一人の村人が気づいた。
「……牙討様」
その声に、歓声が少しだけ弱まる。
「その子は……?」
視線が、一斉にヨハルの背後へ集まった。
イリは四つ足になり、歯を剥いた。
「わっ……なんだ? あいつ」
「狼みたい!」
村の子供達が、物珍しそうにイリを見て騒ぎ始める。人の中で育っていないイリの振る舞いは、彼らの目にはどうしても特異に映った。
「この子は訳あって預かっているのだ。気にしないでくれ」
ヨハルはいつもの落ち着いた調子で説明した。
「ワタシとこの子の分、寝床を用意していただけるとありがたい」
「もちろんですとも! すぐに案内いたします!」
──村人は、ヨハルのために用意していた空き家へ二人を案内した。
その道中、案内役の男はイリに興味が湧いたらしく、ちらちらと後ろを振り返っている。
「牙討様のお子様ですか?」
「違う。先ほども言ったが、預かっているだけだ」
「へぇ、そうでしたか」
男は半分納得したように頷くと、ヨハルの後ろを歩くイリへ笑いかけた。
「お嬢ちゃん、牙討様との旅は楽しいかい?」
そう言って、何気なくイリの頭へ手を伸ばす。触れる寸前、その手をイリがぱしっと弾き返した。
「おっと!」
男は慌てて手を引っ込める。
「ごめんよ。嫌だったか」
イリは男を睨みつける。
「すまんな。気性が荒くて」
ヨハルが言うと、男は気にした様子もなく笑った。
「いえいえ! 子供なんて、みんなこんなものですよ!」
「…………」
イリは男を睨んだまま、ヨハルの後ろをついていった。
──案内されたのは、村の外れに建つ小さな家だった。
黒樅の丸太を組み上げた簡素な造りで、屋根には厚く藁が葺かれている。壁の隙間には苔と泥が詰められ、冷たい山風が入り込まないようになっていた。
「しばらく使っていなかった家ですが、昨晩のうちに火だけは入れておきました。狭いですが、お二人なら十分でしょう」
「うむ、助かる」
男が木戸を押し開ける。ぎい、と軋んだ音がした。ヨハルが中へ入る。
だが、イリはすぐに入らなかった。
「……?」
戸口の前で四つ足になったまま、ぽかんと中を覗き込んでいる。
「どうした?」
イリは鼻をひくひくと動かした。それから恐る恐る片手を伸ばし、戸口の床板に触れると、すぐに手を引っ込める。
「…………」
今度はそのまま体重をかけた。どうやら罠ではないと判断したらしい。そろり、そろりと家の中へ入ってくる。
イリにとって、人の手で造られた家に入るのは初めてだった。これまで寝床にしてきたのは、岩山に穿たれた洞穴や、大樹の幹にできた空洞だ。
イリは忙しなく首を動かしていたが、やがて木戸へ向かった。
押す。……ぎい。開く。
引く。……ぎい。閉じる。
もう一度押す。
「…………」
「イリ、何をしている?」
「これ、なに?」
イリは木戸を指差した。
「それは扉だ」
「と……とびら」
覚えたばかりの言葉を確かめるように呟く。すると今度は、部屋の隅にある暖炉へ駆け寄った。
「中に……火がある?」
「離れなさい」
ヨハルに襟首を掴まれ、イリの身体がずるずると暖炉から遠ざけられる。それでもイリは興味を失わず、首だけを伸ばして炎を眺めていた。
扉を知らない。
暖炉も知らない。
窓も、床も、椅子も。
ヨハルは改めて痛感する。
(この子は本当に、獣の世界で育ったのだ)
ふと、ヨハルは案内人へ目を向けた。
男は呆気に取られた様子で口を開け、イリを眺めている。
「はは……ちょっと、変わったお嬢さんですね」
「ああ、そうなんだ」
ヨハルは短く答えた。
これ以上、イリの振る舞いを見られるのはよくない。
「ありがとう。あとはもう、構わなくてよい」
「あ、はい。それでは、ゆっくりお休みください」
男は軽く頭を下げ、小屋を出ていった。木戸が閉まり、ヨハルは小さく息を吐いた。
「…………」
妙に静かだ。
ヨハルが振り返る。
イリが立っていた。
その手には、暖炉から引き抜いた薪が握られている。握った側はまだ燃えていない。だが、その先端では赤い炎が揺れていた。
「イリ! 何をしている!?」
イリは答えない。
燃える薪を握ったまま、ヨハルをじっと見つめていた。




