02 獣の子
指摘した三点を反映した改稿版だよ。
今回は、イリの獣らしい好奇心を序盤に追加し、戦闘中の行動とラストの眼差しに曖昧さを残すようにした。それ以外の文章や展開は基本的に維持しているよ。
ヨハルは、イリを連れて山道を進む。
雪がなお山の表面を覆っていたが、枝先からは絶え間なく雫が落ち、ところどころ黒い土が顔を覗かせている。厳冬は過ぎ去り、ゆっくりと春へ向かい始めていた。
イリは周囲をきょろきょろと見回しながら、ヨハルの足跡をなぞるように、ととと、と忙しなく歩く。
雪を被った枝葉を指でつつくと、どさり、と雪が崩れ落ちた。イリはびくりと肩を跳ねさせると、獣のように身を低くして辺りを警戒した。
そんな様子を背中で感じながらも、ヨハルは振り返らない。ただ、イリと距離が離れたのを感じると歩みを緩めた。
イリもヨハルに置いていかれぬよう、両手をついて四つ足になって駆け寄った。
しばらく歩いたところで、小川が姿を現した。
山肌を伝って流れる雪解け水は透き通り、冷気を帯びながらさらさらと音を立てている。
ヨハルは腰を下ろし、竹筒へ水を汲みながらイリへ声を掛けた。
「疲れただろう。少し休むぞ」
イリは目を合わせることなく、俯いたまま小さく頷いた。ヨハルは荷袋からもう一本の竹筒を取り出し、水を汲んで差し出す。しかし、イリは受け取ろうとしない。黙って目を伏せている。
「……手渡しは嫌か?」
仕方なく竹筒を地面へ置いてやると、イリはようやく顔を上げた。
竹筒へ鼻先を近づけ、くんくんと匂いを嗅ぐ。それから両手で拾い上げ、恐る恐る口をつけた。
イリの母親と、あの人喰が死んだ日から、二日が経っていた。途中の宿で二度の夜を越したが、イリがヨハルに心を開く様子はなかった。
食事だけは辛うじて口にするようになったが、会話らしい会話は一度もない。そもそも、人の言葉を理解しているかどうかすら分からなかった。
ヨハルは静かに周囲へ視線を巡らせた。この山へ足を踏み入れたのも、決して当てずっぽうではない。一つの噂がきっかけだった。
昨夜立ち寄った酒場で耳にした話。「北方の小さな村ノバの猟師が一人で山へ入ったまま戻らない」という。
それだけではまだ、人喰の仕業とは限らない。だが牙討とは、そうした些細な噂を辿り、人喰の討伐に努めなくてはならない。
ヨハルは竹筒を口元へ運びながら、一本の大木へ目を向けた。幹には、幾筋もの深い傷が刻まれている。
「……間違いない」
人喰は定期的に硬い木の幹へ牙を突き立て、何度も噛み締めることで鋭さを保つ習性があった。
傷の形状を見て、ヨハルは確信した。
この山には、人喰が居る。
イリはどうだ。人喰の気配を嗅ぎ取っているか。
──いや、その様子はない。人喰どころか、獣の匂いすら探しているようには見えなかった。雪から顔を覗かせた小枝を指先でつつき、飽きると後ろ足で耳の裏を掻く。
獣の子ならではの仕草なのだろうが、人の姿でそれをやられると滑稽だった。
イリの母親は「この子の鼻は役に立つ」と言っていた。
あれは、我が子を生かしたい一心で口にした、ただ説得のための言葉だったのかもしれない。
(少なくとも今の様子では……期待できそうにないな)
ヨハルは歩を進めながら、先ほど見つけた木の傷跡を思い返す。腐食の具合から見て、それほど古いものではない。
人喰は、この近くにいる。
問題はどこに潜んでいるかだ。行方不明の猟師が既に殺されている場合、人喰はすぐには喰い尽くさない。冬を越えるための貴重な食糧だ。土に埋め、数日に分けて喰らう習性がある。
ならば、この周辺のどこかに雪を掘り返した跡が残っているはずだ。
その時、ふと背後の気配が消えたことに気が付いた。
ヨハルは足を止めて振り返る。
イリの姿がない。
小さな足跡も、途中で途切れていた。
「しまった……耽っている間に、置いてきてしまった」
舌打ちを飲み込み、来た道を引き返す。
イリはすぐに見つかった。数分ほど戻った場所で、四つ足になったまま森の奥を見据えている。
「イリ……」
声を掛けた瞬間、ヨハルは違和感を覚えた。
白銀の髪は逆立ち、唇の隙間から覗く牙は固く噛み締められている。喉の奥では、「グルル」と低く押し殺したうなり声が転がっていた。
(何かを……威嚇している?)
イリの視線を追う。
何もいない。そう思った瞬間、頭上で雪が爆ぜた。
反射的に顔を上げる。巨大な腕と鋭い爪が、視界いっぱいに迫っていた。
人喰だ。
咄嗟に上半身を後方へ逸らす。
それでも鋭い爪はヨハルの胸元を深く裂き、三本の傷跡を刻んだ。
熱を帯びた痛みが走る。
ヨハルは雪を蹴って後転し、着地と同時に三又槍を抜き放つ。
穂先を人喰へ向け、静かに間合いを測った。
人喰は異様に長い腕を鞭のようにしならせる。奴らが狙うのは主に心臓だった。あの腕は獲物の胸を抉り、そのまま心臓を引き抜くために発達している。先ほども身を逸らしていなければ、今頃胸に風穴が開いていただろう。
ヨハルは改めて人喰を観察する。
六尺ほどの体躯。牙の摩耗も浅い。人喰の寿命に置き換えるならば十から十五ほど。まだ成熟には至っていない個体だった。
ヨハルは槍を握り直す。
人喰が咆哮とともに腕を振り下ろす。
ヨハルは半歩踏み込み、三又槍を真っ直ぐ突き出した。
穂先が人喰の腕を貫き、振り下ろされた腕がびたりと止まる。
そのまま槍柄を捻ると、骨が軋む鈍い音が響いた。
人喰の巨体が勢いのまま宙で半回転し、雪を巻き上げながら地へ叩きつけられる。
だが、人喰は止まらない。血を撒き散らしながら跳ね起きると、傷を負っていないもう一方の腕を突き出した。
ヨハルは三又の穂先で受け止める。
鋼と骨が軋み合い、ぎり、と嫌な音を立てた。
人喰は唸り声を漏らしながら押し込む。槍越しに伝わる膂力は凄まじい。ヨハルの足が雪を削り、じりじりと後方へ押し込まれていく。
(この若さで、こんなに力が……)
ヨハルは奥歯を強く噛み締める。
その時だった。
視界の隅を、小さな影が駆け抜ける。
イリだ。
四つ足で雪を蹴り、ヨハルと人喰の脇を一気に駆け抜けた。
人喰の耳がぴくりと動いた。
支子色の瞳が、一瞬だけイリを捉える。
──その刹那の隙を、ヨハルは逃さなかった。
一気に力を抜き、押し込まれる勢いを利用して腕を受け流す。
ぐらり、と人喰の体勢が大きく崩れたところ、間髪入れずに踏み込む。
三又の穂先が喉元を貫き、そのまま首の付け根まで深々と突き刺さった。
『グオオオオオォォ』
人喰は血を吐き、絶叫する。
やがて巨体は雪原へ崩れ落ち、周囲を赤黒く染め上げた。
その向こうで、イリがじっとヨハルを見つめている。
その眼差しには、怒りも悲しみも浮かんでいなかった。
ヨハルの背筋を、再び冷たいものが走る。
(人喰の気を逸らした? いや、ワタシを見捨てて去ろうとした?)
その表情から、イリの心情を推し量ることはできなかった。




