01 家族を奪った男
天衡十二年 晩冬
月光を映す山あいの雪原に、赤黒い血がぽつぽつと滴る。白銀の世界の中で、その赤色がひどく際立っていた。
雪原に残された血の跡を追う、一人の男。
ヨハルは、三十二にして数多の人喰を葬ってきた、腕利きの牙討である。
革紐で締め上げたブーツで血痕を踏み潰しながら、じりじりと手負いの獣を追い詰めていく。
人喰は、狼に似た顔をしていた。
耳元まで裂けた口。そこから覗く、不揃いな牙。人のような胴から伸びる四肢は異様に長く、腕を垂らせば指先が膝近くまで届く。七尺を超える巨躯を前屈みに立つその姿は、大柄なヨハルすら小さく見せた。
「……何だ」
ヨハルは眉を歪める。目の前の人喰の行動が、過去に対峙した奴らと異なっていたからだ。
──初手で決着はついたと言っていい。飛びかかる人喰に対してヨハルは三又の穂先を持つ長槍で真下から腹を突き上げた。致命傷を受けた際の行動はおおよそ決まっている。死に物狂いで噛みついてくるか、あるいは本能のままに逃げ出す。
しかし、こいつはそのどちらでもない。
一定の距離を保ちながら、退いている。まるで何かから遠ざけているかのように、眼光はヨハルを鋭く睨みつけながらも、脚は後方へと下がり続ける。
「何の真似だ?」
ヨハルは人喰へ言葉を投げた。返ってくるとは思っていない。こいつらに言葉が理解できるはずがない。
また一歩、足を踏み出す。さらに一歩。人喰も、そのぶんだけ退く。距離だけは、決して縮まらない。
「……やはり」
気づけば、誘導されている。ヨハルは歩みを止め、右後方へ目を向けた。
「向こうに何かあるのか?」
その瞬間、低い唸りが雪原に響いた。それはヨハルが向き直る前に、絶叫へと変わる。
『グオオオオオーーーー!!』
人喰が、地を抉る勢いで飛びかかる。
──だが。
ヨハルは一切揺るがない。迷いのない槍が人喰の脳天を貫き、そのまま頭部を雪原へ串刺しにした。獣はしばし四脚を蠢かせたが、やがて支子色の瞳はゆっくりと濁り、灰色へと沈んだ。
❖
「……妙だな」
雪原の岸壁に洞穴を見つけたヨハルは、ぽつりと漏らした。先ほどの人喰は、明らかにこの洞穴からヨハルを遠ざけようとしていた。
となると、この奥には何かがいる。人喰の残党か、番か。あるいは、成熟前の幼獣か。
ただ疑問なのが、人喰は仲間を守るような生き物ではない。群れることもなく、基本的に単独で行動する個体が多い。ましてや、自身の死に際に誰かを庇おうとするなど、聞いたことがなかった。
洞穴は静まり返っている。
ヨハルは槍を構え、慎重に奥へ踏み込む。
だが、ヨハルの視界に映ったのは、思いもよらぬ光景だった。
「……人間? 親子か?」
岩壁にもたれた女。その腕には、四つか五つほどの小さな少女が抱かれていた。
女は血の気を失った顔で浅い呼吸を繰り返している。腕の中の少女だけが、ヨハルを鋭く睨みつけていた。
雪のような銀髪は不規則に跳ね、野生の動物のようだ。杏色の瞳が、ヨハルを真っ直ぐに射抜く。
ぞくり、と首筋を冷たいものが撫でた。
ヨハルは思わず息を止める。
(……何だ、この殺気は)
幾度となく死線を潜ってきた牙討としての本能が、何かを訴えていた。目の前にいるのは、四つか五つほどの小娘に過ぎない。それなのに、身体が“この少女は危険だ”と警告している。
「馬鹿な……こんな子供に」
自分に言い聞かせるように呟き、小さく首を振る。
気のせいだろう。
そう結論づけ、ヨハルは再び親子へ視線を向けた。
「あなたたちは一体……」
言いかけた時、少女の視線がヨハルの背後へ向く。
洞穴の入口から見える雪原。そこに横たわる人喰の亡骸。
「ぎっ……!」
少女は、母親らしき女性の腕を振りほどく。
「イリ! 待ちなさい!」
引き止める声も届かず、少女は転びそうになりながらも両手両足で雪を蹴り、人喰の亡骸へ駆け寄る。
「ぁ……あ……」
冷たくなった身体を何度も揺する。肩を叩き、背中へ顔を埋める。そして、それがもう動かないことを察した少女はゆっくりと顔を上げた。
「ア゛ア゛ア゛ァァァァァッ!!」
腹の底から絞り出すような咆哮が雪原へ響き渡る。その声は幼子の泣き声ではない、まるで獣の遠吠えだった。
その光景を眺めながら、ヨハルは女性に問う。
「彼女は、あなたの娘か?」
「……はい」
「あの人喰は……あなたたちを庇っているように見えたのだが」
「…………」
女性は俯き、しばらく答えなかった。
「怖がる必要はない。ワタシは人間に危害は加えない」
その一言に背中を押されるように、女性は静かに口を開く。
「あれは……私の主人です」
女性は少し唇を噛んだ。
「そして、あの子の父親です」
「……なんだと?」
ヨハルの表情が初めて揺らいだ。
人喰が人間との間に家庭を築き、ましてや子まで宿すなど信じがたい。
だが、先ほど少女の瞳を見た瞬間に覚えた悪寒が脳裏をよぎる。
目の前にいるのは、四つか五つほどの小娘に過ぎない。それなのに身体は、この少女を敵として警戒していた。
あの感覚は、気のせいではなかったのかもしれない。
「あなたに、お願いがあります」
女性は顔を上げ、ヨハルを真っ直ぐに見つめた。
「何だ」
「あの子を……イリを、引き取っていただけないでしょうか」
ヨハルは突然の申し出に眉をしかめる。
「何を言う。ワタシが子供など。まして、人喰の子を……?」
「はい。無理を承知でお願いしています。……見てお分かりでしょうが、私は病の身です。死期は近いでしょう」
弱々しく咳き込み、口元を押さえる。
「…………」
「主人を失った今、私にあの子を育てる力はありません」
女性は雪原で父親の亡骸に縋るイリへ視線を向けた。
「あの子が生き延びるには、あなたに託す以外に術がないのです」
「……諦めるんだな。ワタシは牙討だ。子の世話などしながら、務まる業ではない」
「世話などとは言いません。余った食料を分け与えるくらいで良いのです。……それに、あの子は鼻が利きます。獲物も探せます。だから、きっと足手まといにはなりません」
「…………」
そこで立ち去れば済む話だった。
だが、ヨハルは考えてしまった。この病に侵された母親が一人であの少女を? 育てられるはずがない。
ふと見ると、女性がじっとこちらを見つめていた。まるで、迷いを見透かされたようだった。
「無理だ……断る。他を当たりなさい」
ヨハルがそう言うと、女性は少し微笑を浮かべ、静かに息を吐いた。
「他……? 他に頼れる者など……そうですか。残念ですが、仕方ありませんね」
諦めたような声音。目からは一気に光が消えた気がした。
ヨハルが踵を返した、その時。視界の端で何かが光った。
嫌な予感を覚え、振り向く。
女性はいつの間にか足元に置かれていた刃物を両手で握っていた。
「よせ!」
叫ぶより早く、女性は自分の喉元に刃物を突き刺していた。
鮮血が洞穴の壁を赤く染めた。
「これで、引き取って……いただけますか?」
「なんてことを!」
駆け寄るヨハルの前で、女性は霞む瞳を雪原へ向ける。その先には、人喰の亡骸へ寄り添う少女の姿があった。
「イリ……どうか……生きて……」
それが、彼女の最期の言葉だった。
❖
人喰の亡骸へ縋るイリの背後に、ヨハルは静かに歩み寄る。その両腕には、息絶えた母親の亡骸を抱えていた。
気配を察したイリが振り返った。
両手両足を雪につき、四つん這いのまま低く身構える。
「フーッ……! フーッ……!」
喉の奥から漏れる唸り声。小さな牙を剥き出しにし、杏色の瞳がヨハルを鋭く睨み据えていた。
父親を殺したのは、ワタシだ。
そして今、その男が母親の亡骸まで抱えて現れた。
母親が自ら命を絶ったことなど、この幼子に理解できるはずもない。
この子の目に、ワタシはどう映っているのだろう。
「お前は、イリというのか」
答えはない。
ただ、その瞳だけがヨハルを真っ直ぐ射抜いている。
「イリ」
ヨハルは静かに言った。
「このまま、この場で野垂れ死ぬか。ワタシに付いてくるか……選べ」
そう告げると、ヨハルは母親の亡骸を人喰の傍らへ静かに横たえた。
「ウアイオ……オルガ」
イリが低く何かを呟く。
「なに……獣の言葉か?」
ヨハルは眉をひそめた。
「人の言葉は分かるか?」
「…………」
返事はない。
ヨハルは小さく息を吐くと、その場に背を向けた。
雪を踏みしめ、来た道を歩き始める。
しばらく進み、ふと足を止めて振り返る。
白い雪原には、自分の足跡が一直線に続いている。
そして、その脇にはもう一筋。四足で歩いた、小さな足跡が交差する。
岩陰から岩陰へ身を隠すように移動しながら、それでも一定の距離を保ってヨハルの後を追ってきていた。
「……ふん」
両親を殺したと思っている相手に、それでも付いてくるというのか。
生き残るための、本能か。
それとも──復讐のためか。
いつか、この少女が自らに牙を剥くことになるかもしれない。それでもヨハルは、その小さな足音を拒まなかった。
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