第二話
馬車が公爵邸の門をくぐった瞬間、モスカは思わず背筋を伸ばした。
高い石壁。
黒い鉄の門。
灰色の塔。
王都の屋敷とは比べものにならないほど広く、重く、静かな場所だった。
庭にはまだ春の色が少ない。
低い木々は風に枝を揺らし、土は黒く湿っている。
遠くの山には雪が残っていて、そこから吹き下ろす風が馬車の窓を冷やしていた。
ここが、これから自分の暮らす場所。
そう思うと、胸の奥がきゅっと縮んだ。
馬車が玄関前に止まる。
扉が開き、冷たい風が入り込んできた。
モスカは外へ降りた。
石畳の上に立った瞬間、足元から冷えが上ってくるようだった。
玄関前には、使用人たちが並んでいた。
先頭に立っていたのは、白髪の執事だった。
背筋はまっすぐで、表情は穏やかだが、隙がない。
「モスカ様。長旅、誠にお疲れさまでございました」
「ありがとうございます」
モスカは慌てて礼を返した。
「マティアスと申します。ヴァレンティア公爵家の執事を務めております」
「モスカ・リュミエールです。これからお世話になります」
「こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします」
丁寧だった。
誰もモスカを軽んじてはいない。
けれど、そこにあったのは歓迎というより、整えられた受け入れだった。
公爵の婚約者を、失礼のないよう迎える。
それ以上でも、それ以下でもない。
モスカは、つい玄関の奥を見た。
エドガルの姿はなかった。
それに気づいたマティアスが、静かに言う。
「公爵様は現在、騎士隊との協議中でございます。夕食にはお戻りになられる予定です」
「あ……そうなのですね」
到着の日くらい、出迎えてくれるかもしれない。
ほんの少しだけ、そう思っていた自分が恥ずかしかった。
エドガルは初対面で言った。
この婚約に、情を求めていない。
ならば、わざわざ出迎える理由などない。
モスカは微笑んだ。
「お忙しい方ですものね」
「はい。公爵様は領地のことを第一に考えておられます」
マティアスの声には、確かな敬意があった。
モスカは頷いた。
「素晴らしいことだと思います」
そう答えると、マティアスがわずかに目を細めた。
「お部屋へご案内いたします」
モスカに用意された部屋は、屋敷の東側にあった。
広い部屋だった。
寝台も、机も、暖炉も立派だ。
窓の外には庭が見える。
遠くには、雪を残した山並みも見えた。
けれど、その部屋はまだ誰のものでもないように見えた。
美しく整えられている。
掃除も行き届いている。
暖炉には火も入っている。
それなのに、温かいとは思えなかった。
モスカの荷物が運び込まれる。
本が数冊。
母の形見の小さな飾り。
使い慣れた筆記具。
父から持たされた家紋入りのハンカチ。
大きな部屋に置くと、それらはひどく小さく見えた。
侍女が衣装を整え、湯の支度をしてくれる。
「長旅でお疲れでしょう。夕食まで少しお休みくださいませ」
「ありがとうございます」
モスカは微笑んだ。
侍女が出ていくと、部屋は静かになった。
暖炉の火が小さく音を立てている。
モスカは窓辺へ歩いた。
外の庭は広い。
けれど、自分が歩いてよい場所なのかどうかも、まだわからなかった。
ここは公爵の屋敷。
自分は婚約者。
けれど、まだこの家の人間ではない。
モスカは窓に映る自分を見た。
王都から来た、頼りない青年。
公爵に望まれてではなく、家の事情でここへ来た婚約者。
「……迷惑をかけないようにしなければ」
小さく呟く。
その言葉だけが、今のモスカにできる誓いだった。
夕食の時間になり、モスカは食堂へ案内された。
長い廊下には、歴代公爵の肖像画が並んでいる。
どの顔も厳しかった。
その視線の下を歩くたび、モスカは自然と背筋を伸ばした。
食堂も広かった。
長い卓の端に、すでにエドガルが座っていた。
黒い礼服ではなく、濃紺の上着に着替えている。
初対面の時より少しだけくだけた装いなのに、その空気はやはり冷たい。
モスカは入口で礼をした。
「エドガル様。本日よりお世話になります」
エドガルは短く頷いた。
「長旅だったな」
「はい。ですが、問題ありません」
「そうか」
それだけだった。
モスカは案内された席に座る。
エドガルの正面ではなく、少し離れた隣側の席だった。
遠すぎず、近すぎない。
まるで、二人の関係そのもののような距離だった。
食事が運ばれてくる。
温かいスープ。
焼いた肉。
黒麦のパン。
北方の根菜。
どれも丁寧に作られていた。
けれど緊張で、味はあまりわからなかった。
エドガルは食事をしながら、淡々と話した。
「明日から婚約者教育を始める」
「はい」
「午前は礼法と北方公爵家の家法。午後は領地の基礎資料に目を通せ」
「承知しました」
「不明点はマティアスに聞け」
「はい」
「体調が悪い時は侍女に言え」
モスカは少し驚いて顔を上げた。
エドガルは視線を向けず、肉を切っている。
「旅の後は崩しやすい」
「あ……ありがとうございます。気をつけます」
「気をつけるだけではなく、悪ければ言え」
「はい」
それは、気遣いなのだろうか。
それとも、婚約者が倒れたら面倒だからだろうか。
モスカには判断できなかった。
けれど、ほんの少し胸が温かくなりかけて、すぐに自分で打ち消した。
期待してはいけない。
エドガルは優しいから言ったのではない。
公爵家の管理責任として言っただけだ。
モスカは静かに微笑んだ。
「ご迷惑をおかけしないようにいたします」
エドガルの手が、わずかに止まった。
「……迷惑という話ではない」
低い声だった。
モスカは瞬きをする。
「ですが」
「体調が悪いなら報告しろと言っただけだ」
「はい。申し訳ありません」
「謝ることでもない」
エドガルの眉間に、少し皺が寄る。
怒らせてしまったのだろうか。
モスカはすぐに口を閉じた。
食堂に沈黙が落ちる。
食器の音だけが響いた。
翌日から、モスカの生活は規則正しく始まった。
朝は決まった時刻に侍女が起こしに来る。
朝食のあと、午前は礼法と家法。
昼食を挟み、午後は領地資料。
夕方には屋敷内の説明を受ける。
すべてが整っていた。
誰も声を荒げない。
誰も取り乱さない。
廊下には埃ひとつ落ちていない。
使用人たちは必要なことを、過不足なくこなす。
その整った空気の中で、モスカはずっと緊張していた。
自分の失敗だけが、ひどく目立つ気がした。
礼法の教師は公平だったが、甘くはなかった。
「モスカ様、その礼は王都式です。北方ではこちらの形式を用います」
「申し訳ありません。もう一度お願いいたします」
「謝罪より、覚えることが大切です」
「はい」
モスカは必死に覚えた。
姿勢。
礼の角度。
呼称。
晩餐の席順。
北方公爵家に仕える者への接し方。
午後には領地の資料を読む。
地名だけでも難しい。
王都育ちのモスカには、冬に道が閉ざされるという感覚がすぐには掴めなかった。
だが、読み進めるうちに少しずつわかってきた。
この土地では、寒さがただの季節ではない。
命に関わるものなのだ。
雪で道が消えれば、医師は来られない。
薬草が足りなければ、熱を出した子どもが助からない。
燃料が届かなければ、老人が冬を越せない。
エドガルがいつも冷静で、無駄を嫌い、言葉を削る理由が少しだけわかった気がした。
この土地では、判断の遅れが人を殺すのかもしれない。
そう思うと、資料の文字が急に重くなった。
モスカは毎日、資料室に残る時間が増えていった。
授業で出された範囲を終えても、地図と帳簿を見比べた。
わからない言葉を小さな紙に書き出した。
部屋に戻ってからも、こっそり復習した。
誰かに命じられたからではなかった。
役に立ちたかった。
望まれて来たわけではない自分が、ここにいていい理由を、何かひとつでも作りたかった。
三日目の午後、マティアスに屋敷内を案内された。
厨房。
使用人たちの控え室。
物資の搬入口。
備蓄倉庫。
資料室。
そのどれもが、きちんと管理されていた。
特に備蓄倉庫には、モスカは驚いた。
木箱が整然と並び、それぞれに中身と搬入日が書かれている。
乾燥肉、豆、塩、布、燃料、薬草。
「冬季に備えるためでございます」
マティアスが説明した。
「北方では、道が閉ざされる前にどれだけ備えられるかが重要になります」
「これを、村ごとに管理するのですか」
「はい。公爵様が特に重視しておられる点です」
エドガル様が。
モスカは棚を見上げた。
あの冷たい人が、この箱の一つひとつを見ている。
そう思うと、不思議な気持ちになった。
人を遠ざけるように見える人なのに。
その目は、遠い村の冬まで見ている。
資料室に戻ると、モスカは自然と冬季備蓄の記録を手に取っていた。
それは古い記録だった。
北東部の小さな村、アルネ村。
人口。
薬草備蓄量。
乾燥食料。
冬季閉鎖路。
数字を追ううちに、モスカは眉をひそめた。
アルネ村は隣村より人口が多い。
冬に道が閉ざされやすい。
なのに、薬草の備蓄量が少ない。
共同備蓄の記載がある年もあったが、近年は途切れている。
写し間違いだろうか。
それとも、別の補給路があるのだろうか。
モスカは地図を広げ、指で道を辿った。
やはり気になる。
ここで不足があれば、冬になってからでは遅いのではないか。
けれど、自分が口を出すことではない。
ここに来たばかりの婚約者。
領地のことなど、何も知らない。
余計なことを言えば、呆れられるかもしれない。
それでも、その数字は頭から離れなかった。
その日の夕食で、モスカはずっと迷っていた。
言うべきか。
黙っているべきか。
エドガルはいつものように、淡々と予定を告げた。
「明日は午前の授業後、北方家法の写しを読むように」
「はい」
「午後は屋敷管理について、マティアスから説明を受けろ」
「承知しました」
それで終わるはずだった。
けれど、モスカは膝の上で手を握り、勇気を出した。
「あの、エドガル様」
エドガルが顔を上げた。
「何だ」
「本日、資料室で冬季備蓄の記録を拝見しました」
「それで」
声は平坦だった。
モスカは慎重に言葉を選んだ。
「北東部のアルネ村についてなのですが、人口に対して薬草の備蓄量が少ないように思いました。隣村と共同で管理している記録も近年は見当たらず、もし僕の読み間違いでなければ、冬前に確認を」
「余計なことをしなくていい」
短い言葉だった。
モスカは息を止めた。
エドガルの声は荒くなかった。
けれど、鋭かった。
「……申し訳ありません」
「君に求めているのは、婚約者として必要なことを学ぶことだ。領地運営に口を出すことではない」
胸が冷たくなった。
モスカは俯いた。
「はい」
「資料も、必要以上に読み込まなくていい」
「……はい」
「慣れない土地で無理をすれば体を崩す。婚約式前に倒れられても困る」
倒れられても困る。
その言葉が、静かに刺さった。
きっと、それは事実なのだろう。
自分が体調を崩せば、屋敷に手間をかける。
予定も崩れる。
公爵家に迷惑をかける。
モスカは指先を握りしめた。
「ご迷惑をおかけしないようにいたします」
エドガルの眉がわずかに動いた。
けれど、何も言わなかった。
食事の味は、その後ほとんどわからなかった。
モスカは決められた分だけ口に運び、礼をして、部屋へ戻った。
部屋に戻ると、急に体の力が抜けた。
暖炉には火が入っている。
侍女が湯も用意してくれている。
部屋は静かで、清潔で、何一つ不足はない。
それなのに、胸が苦しかった。
余計なことをした。
そう思った。
役に立ちたいなどと、思い上がったのがいけなかったのだ。
エドガルの言う通り、自分は領地運営に口を出す立場ではない。
婚約者として最低限のことを学び、迷惑をかけず、静かにしていればよかった。
モスカは机の上に置いた覚え書きを見た。
アルネ村。
薬草備蓄。
隣村との共同管理記録なし。
冬季閉鎖路。
自分の小さな文字が、急に恥ずかしく見えた。
捨てようとした。
けれど、手が止まる。
もし本当に不足していたら。
その不安だけは、消えなかった。
でも、もう言えない。
モスカは紙を畳み、引き出しの奥へしまった。
「もう、余計なことはしない」
小さく呟いた。
その声は、自分でも思ったより弱かった。
同じ頃、エドガルは書斎にいた。
机の上には、夕食後にマティアスが持ってきた領地報告が積まれている。
その中に、北東部の備蓄確認表があった。
エドガルはアルネ村の欄を見て、眉を寄せた。
薬草備蓄量が、確かに少ない。
「マティアス」
「はい」
控えていた執事が静かに返事をする。
「アルネ村の薬草量を確認しろ。隣村との共同備蓄が切れている可能性がある」
「かしこまりました」
マティアスは一礼したあと、少しだけ間を置いた。
「モスカ様が、お気づきになった件でございますね」
エドガルは書類から目を上げない。
「そうだ」
「鋭いご指摘かと存じます」
「偶然だろう」
「偶然でも、資料を読み込まなければ気づけません」
エドガルは黙った。
マティアスは続けた。
「モスカ様は、非常に熱心に学んでおられます」
「知っている」
「ご存じでしたか」
「夜遅くまで部屋の灯りがついていると報告を受けている」
「では、なおさら」
マティアスは少しだけ声を柔らかくした。
「先ほどのお言葉は、少々厳しかったかと」
エドガルの手が止まった。
「負担をかけたくなかった」
「はい」
「慣れない土地へ来たばかりだ。婚約者教育だけでも多い。領地の問題まで背負わせる必要はない」
「お考えは理解いたします」
マティアスは静かに言った。
「ですが、モスカ様には、そのようには伝わっていないかもしれません」
エドガルはようやく顔を上げた。
「どう聞こえた」
「ご自分は余計なことをしたのだ、と」
「……」
「役に立とうとしたことを、咎められたのだと」
エドガルは黙り込んだ。
そのつもりではなかった。
領地運営は重い。
この土地では、数字の間違いひとつが人命に関わる。
まだ来たばかりのモスカが、その重さを背負う必要はない。
そう思った。
だから止めた。
だが、自分の口から出た言葉は何だった。
余計なことをしなくていい。
領地運営に口を出すな。
資料も必要以上に読むな。
婚約式前に倒れられても困る。
エドガルは眉間を押さえた。
「……言い方が悪かった」
「はい」
マティアスは遠慮なく肯定した。
エドガルは少しだけ睨む。
「そこは否定しないのか」
「事実でございますので」
長年仕える執事は、こういう時だけ容赦がなかった。
エドガルは深く息を吐いた。
「彼は、なぜあそこまで学ぶ」
「モスカ様は、ご自分の居場所を探しておられるのではないでしょうか」
「居場所」
「はい」
マティアスは書斎の扉の方へ視線をやった。
「ご実家の事情は、公爵様もご存じの通りです。こちらへ来られてからも、モスカ様は常に“迷惑をかけないように”とおっしゃいます」
エドガルは思い出した。
ご迷惑をおかけしないようにいたします。
初対面でも。
到着した日も。
夕食の席でも。
モスカは何度もそう言った。
「ご自分が望まれてここに来たとは、思っておられないのでしょう」
その言葉に、エドガルの胸の奥が微かに軋んだ。
望まれて。
自分は最初に何と言った。
情を求めていない。
不要な期待はしないでほしい。
それは線を引くための言葉だった。
政略の婚約に、余計な夢を見せるべきではないと思った。
自分は優しい婚約者にはなれない。
なら最初に、期待を断つ方が誠実だと思った。
だが。
それは本当に誠実だったのか。
「……彼は、傷ついたか」
エドガルは低く聞いた。
マティアスは少しだけ沈黙した。
「おそらく」
短い答えだった。
エドガルは椅子の背にもたれた。
今さら、どう言えばいい。
負担をかけたくなかった。
君の指摘は正しい。
余計なことではなかった。
どれも、今言えば言い訳に聞こえる気がした。
マティアスが言った。
「まずは、アルネ村の確認結果をモスカ様へお伝えしてはいかがでしょう」
「なぜ」
「ご自分の気づきが無駄ではなかったと知れば、少しは安心なさるでしょう」
エドガルは机の上の記録を見た。
アルネ村。
モスカが気づいた小さな穴。
もし本当に備蓄が不足していたなら、それは見逃してはいけないことだ。
「確認を急げ」
「かしこまりました」
マティアスが一礼し、部屋を出ようとする。
その背に、エドガルは言った。
「マティアス」
「はい」
「モスカの部屋へ、温かい薬草茶を」
「体調を崩されたのですか」
「いや」
エドガルは少し言葉に詰まった。
「……遅くまで起きているなら、冷える」
マティアスは一瞬だけ、穏やかに目を細めた。
「かしこまりました」
「私からとは言うな」
「では、屋敷からということで」
「そうしろ」
マティアスは何も言わず、静かに礼をして出ていった。
書斎に一人残されたエドガルは、机の上の資料を見つめた。
モスカの細い指が、地図の上を辿っていた姿を想像する。
慣れない土地。
読みにくい記録。
知らない地名。
それでも、彼は見つけた。
誰かが困る前の、小さな穴を。
エドガルは低く呟いた。
「余計ではなかった」
だが、それを本人にどう伝えるべきか。
その答えだけが、領地のどんな問題よりも難しかった。




