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第三話




翌朝、モスカはいつもより早く目を覚ました。


窓の外は薄く曇っている。

北方の朝は、王都の朝よりずっと静かだった。


鳥の声も少ない。

馬車の音もない。

ただ、遠くで風が鳴り、屋敷のどこかで使用人が動き始める小さな気配がある。


モスカは寝台の中で、しばらく天井を見つめていた。

昨日の夕食のことが、頭から離れなかった。


余計なことをしなくていい。

領地運営に口を出すことではない。

婚約式前に倒れられても困る。


エドガルの言葉は、何度も胸の中で繰り返された。


怒鳴られたわけではない。

ひどい罵りでもない。

むしろ、冷静で、必要な線引きだった。


だからこそ、深く刺さった。


自分は何を勘違いしていたのだろう。

少し資料を読んだだけで、役に立てるかもしれないなどと思って。

この家に居場所を作れるかもしれないなどと思って。


モスカは布団を握りしめ、目を閉じた。


もう、余計なことはしない。

そう決めたはずだった。


身支度をしていると、侍女が小さな盆を持ってきた。


「モスカ様。昨夜はよくお休みになれましたか」


「はい。ありがとうございます」


本当は、何度も目が覚めた。

けれど、それを言っても仕方がない。


モスカが微笑むと、侍女は盆の上の器を示した。


「昨晩、薬草茶をお持ちしたのですが、お休みになっていたようでしたので、今朝改めてお持ちしました」


「薬草茶?」


「はい。お体が冷えないように、と」


「誰が……?」


そう尋ねかけて、モスカは口を閉じた。

屋敷から、だろう。

公爵邸では、そういう配慮も決まりとして行われるのかもしれない。


侍女は少しだけ微笑んだ。


「マティアス様からでございます」


「そうですか」


モスカは器を受け取った。

湯気が立っている。


ほんのり苦く、青い香りがした。

口に含むと、体の奥にゆっくり温かさが広がる。


「おいしいです」


「よろしゅうございました」


侍女は嬉しそうに礼をした。


モスカは器を両手で包みながら、少しだけ息をついた。


昨日、冷えた胸の奥に、ほんの少しだけ温かいものが落ちる。

けれど、その温かさを大切にしようとすると、また期待になってしまいそうで怖かった。


マティアスが気を配ってくれたのだ。

そう思うことにした。






朝食の席で、エドガルはいつも通りだった。

すでに席に着き、書類に目を通している。


モスカが礼をして座ると、エドガルは短く頷いた。


「眠れたか」


唐突な問いだった。


モスカは一瞬遅れて答えた。


「はい」


エドガルの目がこちらに向く。


「本当に?」


その問いに、モスカは言葉に詰まった。


はい、と言えばいい。

それで終わる。


けれど、昨日の「大丈夫ではない顔だ」という言葉を思い出した。


いや、まだ言われていない。

それは未来の話ではない。


今のエドガルは、ただ確認しているだけだ。

モスカは視線を落とした。


「……少し、目が覚めました」


エドガルの手がわずかに止まった。


「体調は」


「悪くありません」


「そうか」


それだけだった。


責められない。

叱られない。


モスカは少しだけ肩の力を抜いた。


しかし、その次の瞬間、エドガルは淡々と言った。


「今日の午後の資料閲覧は中止する」


モスカは顔を上げた。


「え」


「午前の授業後は休め」


胸が冷えた。


昨日のことが原因だ。

やはり、自分が余計なことをしたから。


「申し訳ありません」


モスカはすぐに頭を下げた。


「昨日の件でご不快にさせたのであれば、今後は決められた範囲のみを」


「違う」


エドガルが遮った。


声は少し強かった。


モスカは肩を震わせる。

エドガルはそれに気づいたのか、ほんの少しだけ声を落とした。


「罰ではない」


「……では」


「疲れているように見える」


モスカは何も言えなかった。

エドガルは続ける。


「慣れない土地に来て、日程も詰めすぎた。午前の授業だけにして、午後は休め」


負担を減らそうとしてくれている。

そう理解するまでに、少し時間がかかった。


けれど、モスカの胸に最初に湧いたのは安堵ではなかった。

役に立つ機会まで取り上げられたような、そんな心細さだった。


「僕は、大丈夫です」


そう言ってしまった。

エドガルの眉が寄る。


モスカは慌てて続けた。


「いえ、無理をしているわけではありません。ただ、学ぶべきことが多いので」


「だから休めと言っている」


「ですが」


「モスカ」


名前を呼ばれて、モスカは口を閉じた。

エドガルの声は低かった。


「倒れてからでは遅い」


「……はい」


それはきっと、気遣いなのだ。

でも、どうしても昨日の言葉と重なって聞こえた。


倒れられても困る。


モスカは小さく頷いた。


「承知しました」


エドガルは何か言いたげにこちらを見た。

けれど、結局何も言わなかった。


朝食はそのまま静かに進んだ。






午前の授業は、いつもより長く感じた。

礼法の教師は相変わらず厳密だった。


北方式の挨拶。

婚約者として来客を迎える時の立ち位置。

席次。

言葉遣い。


モスカは間違えないように集中した。


教師が言う。


「モスカ様、手の位置が少し高うございます」


「申し訳ありません」


「もう一度」


「はい」


繰り返すうちに、足が少し震えた。

けれど、それを悟られないようにした。


今日は午後を休むことになっている。

なら、せめて午前の授業では失敗してはいけない。


その思いが強くなればなるほど、体は硬くなった。






授業が終わる頃には、モスカはひどく疲れていた。


「本日はここまでにいたしましょう」


教師が言う。


「ありがとうございました」


モスカは深く礼をした。

教師が退出し、侍女が休憩を勧める。


「お茶をお持ちしましょうか」


「いえ、少しだけ歩いてきます」


部屋に戻って休む気にはなれなかった。

何もしないでいると、余計なことばかり考えてしまいそうだった。


侍女が心配そうにする。


「お一人で大丈夫でございますか」


「屋敷の中ですから」


モスカは微笑んだ。


「少しだけです」


そう言って廊下へ出た。


向かったのは資料室ではなかった。

行ってはいけない気がした。


資料を読み込むなと言われたわけではない。

けれど、昨日の今日でそこへ行く勇気はなかった。


足は自然と、薬草園の方へ向いていた。

温室の扉を開けると、湿った土と青い葉の匂いがした。


外の冷たい空気とは違い、ここは少し暖かい。

モスカはほっと息をついた。


中では、庭師のエリンが鉢の手入れをしていた。


「おや、モスカ様」


「お邪魔してもよろしいですか」


「もちろんでございます」


エリンは穏やかに笑った。


「今日はお休みで?」


「午後は休むようにと」


「それはよろしゅうございます。お顔が少し白いですから」


モスカは苦笑した。


「皆さん、よく見ていらっしゃいますね」


「草も人も、毎日見ていると少しの違いがわかるものでございます」


エリンは手元の小さな鉢を示した。


「こちらも、昨日より少し葉が下がっております。水が足りないのではなく、根が冷えたのでしょう」


モスカは鉢を覗き込んだ。


「水が足りないのではないのですか」


「ええ。見た目だけではわからないこともございます」


その言葉が、なぜか胸に刺さった。

見た目だけではわからない。


自分も、そうなのだろうか。

聞き分けがよく、笑って、はいと答えていれば、大丈夫に見えるのだろうか。


「モスカ様」


エリンが優しく呼ぶ。


「はい」


「ここでは、ただ座っていてもよろしいのですよ」


モスカは驚いて顔を上げた。


「ただ座る、ですか」


「はい。働く草を見ているだけでも、人は少し休めます」


「……僕は、何もしないのが少し苦手です」


「では、練習でございますね」


エリンは何でもないことのように言った。


「練習」


「はい。休むことも、慣れない方には練習が必要でございます」


モスカは小さく笑った。


「そういうものですか」


「そういうものでございます」


エリンは椅子を一つ、温室の隅に置いてくれた。

白い小さな花の近くだった。

モスカはそこに座った。


小さな花は、今日も静かに咲いている。

雪の下でも根が生きる花。

咲ける場所があるから咲く花。


モスカはその花を見つめながら、ゆっくり息をした。

少しだけ、胸の苦しさが和らいだ。






その頃、エドガルは書斎で報告を受けていた。

マティアスが持ってきたのは、アルネ村の確認結果だった。


「モスカ様のご指摘通り、薬草の備蓄量に不足がございました」


エドガルは書類を受け取った。


「原因は」


「三年前までは隣村と共同備蓄をしておりましたが、補給路の変更後、記録の移行が不完全だったようです。昨年は暖冬だったため問題になりませんでしたが、今年の冬に雪が多ければ不足する可能性がございます」


「すぐに補填しろ。冬を待つな」


「手配いたします」


マティアスは一礼した。


「モスカ様のご指摘がなければ、発見が遅れたかもしれません」


エドガルは書類を見つめた。


確かに、彼の気づきは正しかった。

この広い領地で、こういう小さな穴は起こりうる。


だが、来たばかりのモスカが気づいたことは、偶然ではない。


彼は資料を読んだ。

地図と照らした。

人口と備蓄を比べた。

そして、不安を口にした。


勇気が必要だったはずだ。

それを自分は、余計なことだと切り捨てた。


「……モスカは今どこにいる」


「午前の授業後、薬草園へ向かわれました」


「休めと言ったはずだ」


「薬草園で座っておられるようです。エリンが見ております」


エドガルは少しだけ息を吐いた。


「そうか」


マティアスは静かに言う。


「ご報告なさいますか」


「何を」


「アルネ村の件です」


エドガルは黙った。


伝えるべきだ。

そう思う。


だが、どう伝えればいい。


昨日の言葉を取り消すには遅い。

謝るべきなのだろう。

だが、謝罪の言葉を口にすることに慣れていないわけではない。


政務であれば言える。


判断が誤っていた。

対応を修正する。

責任は私にある。


言葉はいくらでもある。


けれど、モスカに対して言うべき言葉は、それとは違う気がした。


君の指摘は正しかった。

余計ではなかった。

傷つけるつもりはなかった。


そう言えばいい。

簡単なはずなのに、喉の奥で何かが引っかかる。


マティアスが言った。


「公爵様」


「何だ」


「言葉は、完璧でなくてもよろしいかと」


エドガルは視線を上げた。

マティアスは平然としている。


「モスカ様は、おそらく完璧な慰めを求めておられるわけではありません」


「では何を求めている」


「ご自分の努力が、踏みにじられなかったことを」


エドガルは黙った。


踏みにじったつもりはなかった。

しかし、そう伝わったのなら、結果は同じだ。


「……薬草園へ行く」


「はい」


「マティアス」


「はい」


「私は、また言い方を誤るかもしれない」


「その時は、また訂正なさればよろしいかと」


「簡単に言う」


「簡単ではございません。ですが、必要でございます」


エドガルは少しだけ苦い顔をした。


「お前は時々、私に容赦がない」


「長年お仕えしておりますので」


「理由になっていない」


「なっております」


エドガルはそれ以上言い返さず、立ち上がった。







薬草園へ向かう途中、エドガルは足を止めた。

温室のガラス越しに、モスカの姿が見えた。


椅子に座り、白い小さな花を見ている。

背筋は伸びているが、肩はどこか頼りなく落ちていた。


王都の貴族らしい華やかさはない。

公爵家の婚約者としての自信も、まだない。


それでも、彼は逃げなかった。


慣れない土地で、慣れない資料を読み、誰に命じられたわけでもないのに、小さな不備に気づいた。

なぜそこまでするのか。


マティアスの言葉が蘇る。


ご自分の居場所を探しておられるのではないでしょうか。






エドガルは扉に手をかけた。

温室の中へ入ると、モスカが驚いて立ち上がりかけた。


「エドガル様」


「そのままでいい」


モスカは中途半端に腰を浮かせたまま止まった。

エドガルは少しだけ眉を寄せる。


怯えさせたいわけではない。


「座っていろ」


「……はい」


モスカはそっと座り直した。


エリンが奥から礼をし、静かに距離を取る。


温室には二人だけのような静けさが残った。


エドガルは何から言うべきか迷った。

迷っている間に、モスカが先に口を開いた。


「午後の休息中に、こちらへ来てしまい申し訳ありません」


エドガルは眉を寄せた。


「薬草園に来るなとは言っていない」


「はい。ただ、休めとのご指示でしたので」


「ここで休んでいたのだろう」


「……はい」


モスカは少し戸惑った顔をした。


エドガルは息を吐いた。

また、言葉が足りない。


「アルネ村の件だ」


その名を出すと、モスカの肩がわずかに強張った。


「申し訳ありません。昨日のことは」


「君の指摘は正しかった」


モスカは言葉を止めた。


目を見開く。


エドガルは続けた。


「三年前まで隣村と共同で備蓄していた記録が、補給路変更後に途切れていた。薬草量は不足している。すでに補填を命じた」


モスカはしばらく何も言わなかった。

ただ、驚いたようにこちらを見ている。


「……本当に、不足していたのですか」


「ああ」


「そう、でしたか」


モスカの声は小さかった。

喜ぶというより、ほっとしたような、怖くなったような声だった。


「では、冬の前に間に合うのですね」


その言葉に、エドガルは胸の奥を突かれた。


彼が最初に気にしたのは、自分の正しさではなかった。


村が冬に困らないかどうかだった。


「ああ。間に合わせる」


モスカはようやく小さく息を吐いた。


「よかった」


その顔を見て、エドガルは言葉に詰まった。

何か言わなければならない。


今だ。

そう思った。


「昨日の言い方は悪かった」


モスカの目が揺れる。


「え」


「君の指摘は余計ではなかった」


エドガルは、どうにか言葉を続けた。


「私は、君に領地運営の重さを背負わせるつもりはなかった。来たばかりで、婚約者教育だけでも負担が大きい。だから止めた」


モスカは黙って聞いている。


「だが、そうは聞こえなかっただろう」


モスカはすぐには答えなかった。


やがて、静かに頷いた。


「……少し、余計なことをしたのだと思いました」


胸が重くなる。


やはり、そうだった。

エドガルは低く言った。


「違う」


モスカの指が膝の上で動く。


「昨日、私は君の努力を否定した。そう聞こえる言い方をした。すまなかった」


謝罪の言葉は、思ったより重かった。

けれど、言えば少しだけ息ができた。


モスカは目を見開いたまま、何も言わない。

怒っているのか、困っているのか、わからなかった。


しばらくして、モスカは小さく言った。


「僕は、謝っていただくような立場では」


「ある」


エドガルは遮った。

強すぎたかと思い、少し声を落とす。


「君は、私の婚約者だ」


モスカの顔がわずかに強張った。


婚約者。

それは役割の言葉でもある。


エドガルはすぐに言い直した。


「……いや、それだけではない。君が努力したことを、私が雑に扱っていい理由はない」


モスカの目が揺れた。

その目を見て、エドガルはさらに言った。


「君の気づきで、冬に困る村が一つ減った」


モスカは息を呑んだ。


「それは、覚えておけ」


「……僕が、役に立ったということでしょうか」


声がとても小さかった。


エドガルは一瞬、返答に迷った。

役に立った。

そう言えば、また彼は役に立たなければここにいられないと思うかもしれない。


だが、否定するのも違う。


「役に立った」


エドガルは言った。


「だが、役に立つためだけにここにいる必要はない」


モスカは完全に固まった。

エドガル自身も、少し驚いた。


自分の口から、そんな言葉が出るとは思っていなかった。


モスカは白い花へ視線を落とした。


「難しいですね」


「何が」


「役に立ってもいいけれど、それだけでいなくてもいい、というのは」


エドガルは返す言葉を探した。


見つからなかった。

代わりに、低く言った。


「私も、うまく言えない」


モスカは少しだけ顔を上げた。


「……はい」


「だから、今はこれだけ聞け」


モスカはまっすぐこちらを見る。

エドガルは静かに言った。


「昨日の件は、余計ではなかった」


モスカの唇がかすかに震えた。


「はい」


「資料を読むなと言ったが、読むなという意味ではない」


「……難しいです」


「私の言い方が悪い」


「いえ」


「悪い」


モスカは少し驚いたように瞬いた。

その顔を見て、エドガルはほんのわずかに息を緩めた。


「ただし、無理はするな。夜遅くまで灯りがついていると聞いている」


モスカの顔が赤くなる。


「ご存じだったのですか」


「報告を受けている」


「申し訳ありません」


「謝るな」


また言ってしまった。


モスカは慌てて口を閉じる。

エドガルは少し考えてから言い直した。


「……謝ることではない。ただ、休め」


モスカは小さく頷いた。


「はい」


「わからないことがあれば、マティアスに聞け」


「はい」


エドガルは少し間を置いた。


そして、言った。


「必要なら、私にも聞け」


モスカが顔を上げた。


「よろしいのですか」


「ああ」


「領地のことでも?」


「内容による」


そう答えてから、エドガルは自分で少し嫌になった。


また硬い。

だが、モスカはなぜか少し笑った。


「では、まずマティアスさんに聞きます」


「それがいい」


二人の間に、ほんの少しだけ柔らかい沈黙が落ちた。


温室の中で、白い花が小さく揺れている。

エドガルはその花を見た。


「その花が気に入ったのか」


「はい」


モスカは素直に頷いた。


「寒くても咲いているのが、すごいなと思って」


「咲ける場所があるからだと、エリンは言う」


「僕も、そう聞きました」


モスカの声は少し静かになった。


「少し、救われる言葉です」


エドガルはモスカを見た。


救われる。

その言葉の意味を、今なら少し考えられる気がした。


昨日の自分なら、聞き流していただろう。


「なら、ここには時々来ればいい」


モスカは驚いた。


「よろしいのですか」


「禁止する理由がない」


「ありがとうございます」


その礼は、先ほどより少しだけ温かかった。


エドガルは頷いた。

そして、それ以上何かを言う前に踵を返した。


長くいると、また余計なことを言いそうだった。


温室を出る直前、モスカの声がした。


「あの、エドガル様」


エドガルは振り返る。


モスカは椅子から立ち上がっていた。


「アルネ村のこと、教えてくださってありがとうございました」


少し迷ってから、続ける。


「それから……昨日のことも」


エドガルは短く頷いた。


「ああ」


それだけ言って、温室を出た。


外の風は冷たかった。

だが、胸の奥には奇妙な熱が残っていた。


モスカは、温室に一人残されたあと、しばらく白い花を見ていた。


君の指摘は余計ではなかった。

君の気づきで、冬に困る村が一つ減った。

役に立った。

だが、役に立つためだけにここにいる必要はない。



その言葉たちが、胸の中で何度も揺れた。


すべてを信じられるわけではない。

昨日傷ついたことが、すぐに消えるわけでもない。


でも、少なくとも。


エドガルは、モスカの言葉を確認してくれた。

間違っていたかどうかを見てくれた。

そして、謝ってくれた。


それは、モスカにとってあまりにも大きなことだった。


窓の外を見ると、エドガルの後ろ姿が遠ざかっていくのが見えた。


広い背中。

まっすぐな歩き方。

冷たく、不器用で、言葉の少ない人。


その人が、戻ってきてくれた。

余計ではなかったと、伝えに来てくれた。


モスカは胸の前で手を握った。


期待してはいけない。

そう思う。


けれど、ほんの少しだけなら。


この北方の屋敷で、息をしてもいいのかもしれない。

そんなことを、思ってしまった。







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