第一話
モスカ・リュミエールがその話を聞かされたのは、春の雨が降る午後だった。
雨粒が窓を叩いている。
王都の屋敷は古く、窓枠の隙間から湿った風が入り込んでいた。
かつて名門と呼ばれたリュミエール家の屋敷は、今ではどこも少しずつ傷んでいる。
廊下の絨毯は色褪せ、壁の飾りは数を減らし、使用人も昔よりずっと少ない。
それでも表向きだけは、まだ古い貴族の体面を保っていた。
モスカは父の寝室の前で、深く息を吸った。
「入りなさい」
中から、弱った声がした。
モスカは扉を開ける。
父は寝台に半身を起こしていた。
顔色は悪く、手元には薬湯の器が置かれている。
窓辺には兄が立っていた。
兄はモスカを見ると、どこか気まずそうに視線を逸らした。
その顔を見て、モスカは嫌な予感がした。
「モスカ」
父が呼ぶ。
「はい、父上」
「お前に、婚約の話が来ている」
一瞬、雨音が遠くなった。
婚約。
モスカは十八になっている。
貴族の子としては、そういう話が出てもおかしくはない。
けれど、今のリュミエール家に、望ましい縁談が来るとは思えなかった。
家は傾いている。
父は病で伏せている。
兄は家を継ぐ立場でありながら、王都での社交と賭け事に金を使いすぎている。
モスカは、ゆっくり尋ねた。
「どなたとのお話でしょうか」
父は少し間を置いた。
「エドガル・ヴァレンティア公爵だ」
モスカは声を失った。
北方を治めるヴァレンティア公爵。
王都から遠く離れた厳しい土地を、若くしてまとめ上げた人。
冷静で、隙がなく、情に流されない人。
王都の貴族たちは彼を畏れ、北方の民は彼を信頼しているという。
そんな人が、自分を?
「……なぜ、僕なのでしょう」
思わずこぼれた。
父は苦しそうに息を吐く。
「我が家は王家の遠縁にあたる。ヴァレンティア公爵家にとっても、古い血筋をつなぎ直す意味がある」
意味。
それはつまり、モスカ自身に意味があるわけではない、ということだった。
家の名前。
血筋。
傾いた家を支えるための取引。
兄が口を開いた。
「悪い話じゃない。むしろ、うちには過ぎた話だ。公爵家の後ろ盾があれば、父上の療養も、領地の借財も」
そこで兄は言葉を濁した。
モスカは兄を見た。
兄の借金、とは言わないのだ。
父もそれには触れなかった。
ただ、静かに言った。
「名誉なことだ、モスカ」
名誉。
その言葉は、ひどく重かった。
モスカは俯き、膝の上で手を握った。
断れる話ではない。
断れば、家はさらに追い詰められる。
父は苦しむ。
兄は困る。
使用人たちも、領地の者たちも。
モスカは昔から、そういう子だった。
大きな声で嫌だと言えない。
誰かを困らせるくらいなら、自分が我慢する。
自分ひとりが飲み込めば済むことなら、それでいいと思ってしまう。
「……わかりました」
声は、自分でも驚くほど小さかった。
父はほっとしたように目を閉じた。
兄も息をつく。
モスカだけが、まだ息の仕方を忘れていた。
自分は、婚約する。
北方の公爵と。
会ったこともない、冷たいと噂される人と。
その人に望まれてではなく、家のために。
「モスカ」
父が言った。
「公爵に失礼のないように」
「はい」
「お前は昔から聞き分けがいい。きっと、うまくやれる」
聞き分けがいい。
その言葉に、モスカは微笑んだ。
「はい。ご迷惑をおかけしないようにします」
それは、モスカが一番得意な返事だった。
エドガル・ヴァレンティア公爵との初対面は、それから七日後だった。
場所は王都にあるヴァレンティア家の別邸。
モスカは控えの間で、膝の上に手を置いて待っていた。
礼服は淡い灰青色のものを選んだ。
派手すぎず、地味すぎず。
相手に不快感を与えないように。
鏡の中の自分は、少し頼りなく見えた。
細い肩。
血色の薄い顔。
緊張を隠そうとしている口元。
これで公爵の婚約者など務まるのだろうか。
そう思った時、扉が開いた。
「お入りください」
使用人に促され、モスカは立ち上がる。
応接室に入ると、そこにエドガルがいた。
黒い礼服をまとった長身の男だった。
まだ三十を少し過ぎたばかりのはずなのに、若さよりも威圧感が先に立つ。
広い肩。
低く落ち着いた声。
整った顔立ちは美しいと言ってもいいのに、その表情に柔らかさはなかった。
冷たい人だ。
モスカは、すぐにそう思った。
「モスカ・リュミエール殿」
エドガルが名前を呼ぶ。
「はい」
モスカは深く礼をした。
「お初にお目にかかります。モスカ・リュミエールと申します」
エドガルも短く礼を返した。
「エドガル・ヴァレンティアだ」
それだけ。
椅子を勧められ、モスカは座った。
向かいに座ったエドガルは、机の上の書類に目を落とす。
まるで、商談の条件を確認しているようだった。
「婚約についての説明は受けているな」
「はい」
「なら話は早い」
エドガルの声は低く、平坦だった。
「この婚約は両家にとって利がある。君の家は公爵家の後ろ盾を得る。私は、王家に連なる古い血筋との結びつきを補強できる」
モスカは膝の上で指を握った。
わかっていた。
わかっていたのに、本人の口から聞くと、胸の奥が少しだけ痛んだ。
利。
結びつき。
補強。
そこに、モスカという人間はいない。
「はい」
それでも、モスカは頷いた。
エドガルはようやく顔を上げた。
「誤解のないように言っておく」
その目は、雪の夜のように静かだった。
「私はこの婚約に、情を求めていない」
息が止まった。
「君にも、不要な期待はしないでほしい」
不要な期待。
その言葉が、静かに胸へ刺さった。
期待などしていない。
そう言えたらよかった。
でも本当は、ほんの少しだけ考えていたのだ。
もしかしたら、相手は優しい人かもしれない。
政略の婚約でも、少しずつ信頼を築けるかもしれない。
いつか、この家に来てよかったと思える日が来るかもしれない。
その小さな想像を、エドガルは初対面で断ち切った。
モスカは唇の震えを押さえ、微笑んだ。
「承知しております」
エドガルがわずかに目を細める。
「物分かりがいいな」
それは褒め言葉ではなかった。
少なくとも、モスカにはそう聞こえなかった。
「僕は、家のためにこのお話を受けました」
モスカは静かに言った。
「エドガル様にご迷惑をおかけしないよう、婚約者としての役割を果たします」
役割。
自分でそう言った瞬間、胸の奥が冷えた。
けれど、それが一番正しい言葉だった。
エドガルはしばらくモスカを見ていた。
「そうしてくれ」
短い返事。
それで、初対面の会話はほとんど終わった。
その後は、婚約式の予定、北方へ移る時期、公爵邸で受ける教育について説明された。
モスカはすべてに頷いた。
「はい」
「承知しました」
「そのようにいたします」
自分の声が、だんだん遠く聞こえる。
エドガルは一度も、モスカがどう思っているのかを尋ねなかった。
それは当然なのだろう。
これは家同士の婚約で、モスカの気持ちは条件に含まれていない。
最後に、モスカは立ち上がり、もう一度礼をした。
「これから、よろしくお願いいたします。エドガル様」
エドガルは短く頷いた。
「ああ」
ただ、それだけだった。
リュミエール家へ戻る馬車の中で、モスカは窓の外を見ていた。
雨は上がっていた。
石畳が濡れて、夕方の光を鈍く映している。
王都の街はいつも通り賑やかだった。
商人が声を上げ、貴族の馬車が行き交い、花売りの少女が角で花束を抱えている。
世界は何も変わっていない。
けれど、モスカの行き先だけが変わってしまった。
北方。
冷たい公爵邸。
情を求めていない婚約者。
モスカは膝の上で手を握った。
泣くことはできなかった。
泣けば、自分が期待していたと認めることになる。
だから、静かに息をした。
大丈夫。
自分は、うまくやれる。
聞き分けがいい。
迷惑をかけない。
役割を果たす。
それだけなら、できる。
北方へ向かう日は、早かった。
婚約は正式に整えられ、モスカは結婚までの間、公爵邸で暮らすことになった。
表向きは、北方公爵家のしきたりや領地のことを学ぶため。
実際には、王都で余計な噂を立てられる前に、ヴァレンティア家の保護下へ置く意味もあるのだろう。
モスカは少ない荷物をまとめた。
本を数冊。
母の形見の小さな飾り。
使い慣れた筆記具。
それから、父に渡された古い家紋入りのハンカチ。
父は別れ際に言った。
「しっかり務めなさい」
兄は言った。
「公爵の機嫌を損ねるなよ」
モスカは、どちらにも微笑んだ。
「はい」
馬車が動き出す。
王都の屋敷が遠ざかる。
寂しい、とは少し違った。
あの家に心から安心できる場所があったわけではない。
けれど、知っている場所ではあった。
これから向かうのは、何も知らない場所だ。
そして、自分を待っている人もいない場所。
数日かけて北方へ入ると、空気が変わった。
風が冷たい。
空が広い。
遠くの山には、まだ雪が残っている。
馬車の窓に指先を触れると、硝子が冷えていた。
モスカは外を見つめる。
やがて、石造りの大きな屋敷が見えてきた。
高い外壁。
重い門。
灰色の塔。
雪雲の下に沈むように建つ、公爵邸。
ここが、これから自分の暮らす場所。
モスカは知っていた。
自分はここに、望まれて来るのではない。
役目を果たすために来るのだ。
「……迷惑をかけないようにしなければ」
小さく呟くと、馬車はゆっくりと門をくぐった。
北方の風は、王都よりずっと冷たかった。




