第一章・中
家に帰ると、いつもならいるはずの姿は見当たらなかった。
もしかして、気を遣われているのか?
正式入学したら、しばらく会えなくなるのに。
こんな虚しさを感じたのは、いつぶりだろう。
たった三年で、こんなにも変わるものなのか。
居間に入ると、テーブルの上には綾姉の作ったカツサンドが置かれていた。
その隣には、書き置きが残されていた。
中身は、たった一言――「頑張って」。
……不思議な気分だ。普通の家族も、試験を受ける人にこんな風に祝福するのか?
まるで今だけでもいい、「普通」にしてやりたい――そんな気持ちが伝わってくる。
未だに慣れないぬくもりが、ちょっとずつ胸の奥にしみていく。
ここはその好意に甘えて、明日の試験に専念するか。
カツサンドを一口かじった。
★★★
翌日、玄関の扉を前にして、小さく息を吐いた。
「……行ってきます」
返事はない。
……本当に綾姉を見たら、きっとまた迷うから。
両頬をぱんっと叩き、扉を開けて前へ踏み出した。
バスに乗ると、すでに試験専用のユニフォームを着た者何人人がいた。
ぱっと見は安っぽい運動着のようだが、袖を通すと妙に軽かった。
ふと見渡すと、少し年上に見える受験者も混じっていた。
受験資格は十六歳以上二十五歳以下……広い幅だな。
それでも、ここまで人が集まるのか。
少し耳を澄ませると、試験生の会話が自然に流れる――
「なぁ、なんでお前はそこを選んだ? 参加費は結構高かったのに」
「それは参加だけで、入学したら学費免除だよ。それに時間割も自分で決められるし、そんなことができるのはそこしかいない。選ばない理由がないだろう」
……どうやら、広告もただの綺麗事ではなさそうだ。
だが、除籍者リストも間違った情報とは思えない。
どちらも、本当なのか?
席に着いたまもなく、隣の席に妙な人物が目に入った。
薄手のパーカーにジーンズ、運動靴という、ごくありふれた服装。
だが顔の半分をマスクで隠し、フードにマフラー、さらにはサングラスまで――
明らかに顔を隠そうとしている。
……変なやつだ。そんな格好、逆に目立つだろ。
さらに奇妙だったのはその座り方だ。
背筋はぴんと伸び、足もきちんと揃えられている。礼儀正しさと品の良さが漂う。
だが、車体が揺れるたびに肩を小さく震わせ、落ち着きなく視線を動かしている。
バスに不慣れなのか、それとも外出自体が珍しいのか。
端正すぎる所作と落ち着きのなさ。そのギャップが妙に目についた。
……それに、どこかで見た気がする。
『次は、星橋駅、星橋駅です。お降りの方は押しボタンでお知らせください』
バスが停車すると、妙なやつはすぐ立ち上がって、逃げるように人波に混じって降車した。
……さすがに緊張しすぎない? そう思いつつ、人の流れの後ろにつく。
降りた瞬間、潮の香りとざわめきが風に乗って吹き抜ける。
荷物を引く親子。
案内係の制服を着た職員。
手を取り合って笑い合う試験生たち。
すべての人が、同じ方向に目指していた。
正面にそびえるのは、鋼鉄とガラスで構成された巨大な複合施設。
中央は吹き抜け構造になっており、幾層にも重なるフロアを縫うように、エスカレーターが走っている。
見上げると、さらに上層の奥に、ホームらしき構造がぼんやりと浮かんでいた。
あの先が、創星学園へと続いているのか。
さすが星橋市のランドマーク――星橋ステーションプラザ。
試験がなくても、自然と人を引きつく。
静かに息を吐き、少しだけ心臓が高鳴るのを感じた。
人々の流れに溶け込むようにして、天井の高い巨大な入口をくぐった。
★★★
一歩踏み入れた瞬間、人の多さで歩きづらくなった。
ざわめきが絶え間なく押し寄せ、キャリーバッグの車輪の音や子どもの叫び声が混ざって耳に響く。
人波の中には、試験用のユニフォームが目立っていた。
周囲からは「試験頑張ってね」という声が聞こえてくる。
尋常じゃない人波だった。
試験生と、その親族か……。
関係者以外は乗れないはずだが、駅自体は制限されていないように見える。
隙間を縫うように進み、フロアガイドの前にたどり着いた。
ここは一階エントランスホール。
二階と三階はショッピングフロア。
四階はホーム。
五階は受付会場。
六階はホテル……地下階層まである。
さすがランドマークと言える規模だ。有名だと分かっていたが、予想以上だな……
先に受付会場に向かおう。九時前に済ませないと失格となる。
ここで試験を行うなら、一体どんな試験をするつもりなのか。
そう考えながら、エスカレーターへと足を進めた。
五階に入ると、たくさん試験生が手続きを行っていた。
試験生しか見当たらない。どうやら他の人間は入れないらしい。
列に並んでいると、前にいた二人の試験生の会話が耳に入った――
「どんな試験だと思う?」
「さぁ? 普通の試験って、みんな同じ時間に始まるんじゃないのか?」
「そもそも、テスト用紙なんか見ていないし、文具も必要用品に書かれていないぞ」
「端末とユニフォーム、それに一週間も時間を取る時点で、普通の試験とは違うだろう」
教育方針が違う以上、試験の内容も普通とは違うはずだ。
だが、核心となる部分だけが、どうにも掴めない。
断片的な情報はいくつかある。経験者の話も集めている。
それでも、肝心なピースが欠けているようで、どうしても繋がらない。
「そもそも、なんで参加費はそんなに高いんだ? 十万円もかかるんだぜ」
「だな。試験結果によってある程度返還されるとはいえ、普通の数字じゃないぞ」
「借金までできるらしいぜ。脱落したら結果次第で返さなくていいみたい」
「まじかよ。それなら借金で参加するのに」
「いやいや。記録に残るって話だぞ。返さないと、信用にも響くらしいし」
二人の会話を聞いているうちに、ついに順番が回ってきた。
この職員……見た目は自分より年上だが、どう見ても職員というより学生に近い。
他の試験受付カウンターを覗くと、みんなも似たような感じだった。
「あの……試験生さま?」
目の前にいた職員に丁寧に声をかけられ、視線を戻して顔を上げた。
「こんにちは。ユニフォームを見せてください。端末もこちらでお預かりします」
事前に聞いた通り、外との連絡も制限されるらしい。
――参加するって決めた以上、迷う必要はない。
パーカーのファスナーを下ろし、端末を出した。
「水留悠真さんですね。こちらが仮の学生証と、生活点数十万になります」
学生証の見た目は端末に似ているが、型番は少し旧式なものらしい。
十万……これが「参加費」か。
たった一行の数字で、一週間を左右するのか。
それと無機質な封筒が一つ。その重みが、やけに現実的に感じられた。
この瞬間から、その一週間をあの学園に預けることになるのか。
いよいよ――入学試験が始まる。




