006 我が名は「劉備」
薄暗い地下室の一室。
斑模様の壁には、電球の光に揺れる二つの影が映し出されていた。
「ぜ、ぜえ……。さすが先生だ。今回のプロット、マジで……ヤバすぎますよ」
横肉の付いた顔の男が、分厚い原稿の束を抱え、貪るように読み耽っている。
男はページをめくるたびに、何とも言えない卑猥な嚥下音を漏らし、興奮で指先を微かに震わせていた。
その向かい側に座っているのは、黒縁メガネをかけた、どこにでもいいるような平凡な顔立ちの男だ。
「報酬は?」
メガネの男は鼻梁のフレームを押し上げ、淡々とした声で問いかけた。
「おっと、失敬。あまりの力作に見惚れて、つい……」
向かいの男はへらへらと笑いながら、懐からずっしりと重い封筒を取り出し、恭しく差し出した。
「こちらです。ご確認ください」
メガネの男は封筒を受け取り、指先でその厚みを確かめる。
「……いつもより多いな」
「当然ですよ!」
男は胸を叩き、顔を紅潮させて言った。
「先生のおかげで『青動』の最新巻は爆売れです! 路地裏のギャングから工場の監督官まで、飢えた狼みたいに群がって……定価の三倍でも飛ぶように売れてるんですよ。これは上乗せ分、当然の報酬です」
メガネの男は頷くと、封筒を懐にしまい、席を立った。
「わかった。また何かあれば連絡しろ」
「あの……先生」
男が不意に声を潜め、表情を険しくさせた。
「正直なところ、最近は『克制局』の白い連中がうるさくてね。上からはすべての『精神汚染源』を粛清しろと死命が下っているそうです。先生も気をつけてくださいよ。あのアホ共(去勢者)に目をつけられたら、厄介なことになりますから」
メガネの男は足を止めたが、振り返ることはなかった。ただ小さく頷き、そのまま暗い階段の角へと消えていった。
……
ここは「フェルム」第七区。
六大下層区の一つ。
いわゆるスラム街だ。
狭い路地の両脇には、違法建築のトタン屋根がひしめき合っている。
闇の中で五色のネオンが点滅しているが、影にうずくまる無登録者たちの境遇を照らし出すことはない。
地上へ出たメガネの男は、素早く周囲を確認し、誰もいないことを確かめてから歩き出した。
「ふぅ……危険だが、バイトとしては割がいいな」
彼は頬に触れた。一瞬だけ、半透明の仮面が浮かび上がっては消える。
【聖器:虚偽の仮面】
【タイプ:精神系・X型】
【ランク:C】
【説明】
【対象に幻覚を見せ、正体を偽装することができる。機械のセンサーにも有効。】
【注意】
【自らの手で殺害した対象にしか擬態できない。また、格上の聖者や聖獣には見破られる可能性がある。】
「補助型の異武としては、最高に使い勝手がいい」
男――六道 飛鳥は口角を上げた。
至る所に身分識別装置が設置されたこの世界で、第五区のアカデミーと第七区のスラムを往復するには、実在する「準市民」以上の身分を騙る必要がある。
そして能力の制約上、彼は自分が手にかけた相手にしか化けることができない。
今の身分である「佐藤 翔」は、かつて彼が殺害した準市民のものだ。
もちろん、あれは不慮の事故だった。
この世界に来て、初めて人を殺めた時の記憶。
思考を遮るように、飛鳥は空を見上げた。
頭上では「蜂群」と呼ばれる無人機が旋回している。
禿鷹のような赤い光を放ちながら、地上の歩行者たちの「アイロス識別度」をスキャンし続けているのだ。
もし「不健全な思想」によって数値が基準を超えれば、待っているのは冷酷な電撃と終わりのない尋問だけだ。
幸い、彼は常に細心の注意を払っており、尻尾を掴ませたことはない。
今のところ、この身分は安全だ。
「『劉備』なんてペンネーム、我ながら皮肉がきいてるな」
飛鳥は自嘲気味に笑った。
前世で100ペタバイトもの「資料」を蓄積していた紳士である彼にとって、この娯楽が極限まで抑圧された世界は宝の山だ。
頭の中にあるネタを少し漏らすだけで、裏市では核弾頭級のヒット作となる。
まさに「波が高いほど、魚は高く売れる」というわけだ。
真っ当な仕事では、今の彼が必要とする資金は到底賄えない。
だからこそ、このハイリスクな「副業」を選んだ。
当初はネット投稿も考えたが、この世界の技術体系は歪んでいる。
あらゆる通信は二十四時間監視下にある。
小説どころか、メッセンジャーで「肉が食べたい」と送っただけで検閲に引っかかり、克制局のノックを受ける羽目になる。
結局、この前時代的な「紙媒体」による取引こそが、最も安全な手段だった。
「現金取引、読後焼却。これこそが玄人のたしなみだ」
飛鳥が角を曲がった、その時だった。
前方から白い制服を着た二人の男が歩いてきた。
白の制服――それは克制局の証だ。
飛鳥の心臓がドクリと跳ねた。
だが、顔は平然を装い、むしろ少し気弱そうな笑みを浮かべてみせる。
「協力しろ。検問だ」
一人の局員が淡々と言い、手に持ったスキャナーを飛鳥の顔に向けた。
飛鳥は抵抗せず、瞳に走る赤い光を受け入れた。
『ピッ――!』
『佐藤 翔……準市民……犯罪歴なし……アイロス識別度:5%。異常なし』
局員は装置を収めると、小さく毒づいた。
「ちっ、随分と『潔白』なツラをしてやがる」
飛鳥は小心者になりきったまま、おそるおそる尋ねた。
「あの……旦那様、もう行ってもよろしいでしょうか?」
二人の局員は顔を見合わせ、奇妙な視線を交わした。
やがて、一人が近くの暗い路地を指差し、断固とした口調で命じた。
「ついて来い。お前に会いたいという方がいる」
その言葉に、飛鳥は微かに眉をひそめた。
――まさか、バレたか?
いや、あり得ない。
『虚偽の仮面』はCランクの異武。
Bランク以上の異態者でもない限り、看破できるはずがないのだ。
彼は空を巡回するドローンの群れを横目に、異武『黒影』を召喚してこの場で叩き潰したい衝動を抑え込んだ。
ここは繁華街だ。派手な立ち回りは賢明ではない。
奴らが何を企んでいるのか、見極めるのが先だ。
「……承知いたしました」
飛鳥は従順に頭を下げ、静かに彼らの後に続いた。
……




