005 覚醒テスト(アウェイクニング・テスト)
浮遊都市『フェルム』、第九区の境界線。
空気には、肺を刺すような強烈な生臭さが立ち込めていた。
地面には、十数体もの異獣の死骸が無造作に転がっている。
それはセミを百倍に拡大したような醜悪な姿をしていたが、口器は鋭利な鋸状になっていた。
背中の甲殻は吐き気を催すような紫紅色に変色し、死してなお微かに痙攣している。
一人の男が、粘り気のある緑色の体液の中に立ち、眉間に深い皺を刻んでいた。
「また昆虫型か」
男はポケットから安物の煙草を取り出し、火はつけずに口に咥えてガリガリと噛み砕く。
「この畜生ども、これほど深くまで浸透してきているのか?」
傍らでは、若い記録員が顔を真っ白にしながらタブレットを操作していた。
「隊長……今、今回の戦闘で二名の異態者が殉職しました」
記録員の声は、恐怖で震えている。
男は答えず、少し離れた場所にうつ伏せで倒れている遺体に目を向けた。
その背中には異獣に噛まれた痕跡はない。
代わりに、重火器によって至近距離から撃ち抜かれた、焦げた大きな穴が開いていた。
「あれはどういうことだ?」
男が指差すと、重厚なパワーアーマーに身を包んだ兵士がびくりと肩を震わせ、のろのろと前に出た。
アーマーのバイザーが開き、冷や汗にまみれた顔が露わになる。
「ほ、報告します! 第九区防衛隊所属です!」
兵士は敬礼し、震え声で弁明した。
「この者は……異獣の突撃を前に、敵前逃亡を図ろうとしました。私がガトリング砲を操作していた際、つい手元が狂って……その……」
「つい、だと?」
男は冷笑し、一歩踏み込む。歴戦の猛者が放つ威圧感に、兵士は膝を突きそうになった。
「殺したのか? 十年前なら、これは重罪だぞ」
兵士の顔は死人のように白くなり、唇を戦慄かせた。
「申し訳ありません! 現場が混乱しておりまして……!」
「もういい」
男は苛立たしげに手を振り、弁明を遮った。
「今の世の中、逃亡兵は死に値する。たとえそれが異態者であってもだ。だがな、価値が落ちたとはいえ、彼らは重要な戦略資源なんだよ」
男は遠くの澱んだ空を見上げた。
「貴様、今月のボーナスは全額カットだ。戻ったら重力訓練を倍にしろ」
「は、はい! ありがとうございます!」
兵士は地獄で仏に会ったような顔で、這うようにして隊列に戻っていった。
男は口の中の煙草のカスを吐き捨て、独り言を漏らした。
「やれやれ、また人手不足か。上の連中はケチすぎて、新しい予算案も通らない。新型は高すぎるな……やはり原生代を使うしかないか」
……
嬲嫐学院、男子校舎、グラウンド。
「はぁ――はぁ――」
重苦しい喘ぎ声がそこかしこで響く。
一年生の男子生徒たちが、三十キロの重りを背負って長距離走の訓練に励んでいた。
これは彼らの日課であり、基礎中の基礎だ。
「なぁ、お前……」
隊列の真ん中を走る生徒が、汗を拭いながら隣の生徒に目配せをした。
「俺たち、いつになったら本物の異獣と戦えると思う?」
「毎日毎日、ここでぐるぐる回ってるだけじゃ馬鹿になりそうだぜ。前線に行けば金も稼げるし、市民ランクも爆上がりだろ。二、三年生の先輩たちが羨ましいよ」
「そうだよな。あいつら、抑制剤の量も減らせるし、噂じゃ伝説の『女』とチームを組んで任務に行けるらしいぜ」
「女……」
その単語が出た瞬間、周囲の生徒たちの目が一斉に血走り、呼吸が荒くなった。
男女が完全に隔離されたこの大抑圧時代において、思春期の男子にとって「女」という二文字は、どんな興奮剤よりも効き目があった。
「ヘッ、お前ら情けねぇな」
前を走っていた生徒が急にスピードを落とし、懐から丁寧におり畳まれた紙切れを、神秘的な手つきで取り出した。
「俺、実は持ってるんだ。『女』の写真。しかも曲線がえげつない極上品だぜ。お前ら、拝んでみるか?」
「おまっ、正気か!?」
「教導室に見つかったら停学じゃ済まないぞ!」
口ではそう言いながらも、彼らの目は紙切れに釘付けになり、喉を鳴らしている。
「で、見るのか見ないのか。どっちだ?」
「……いくらだ?」
「お前との仲だ。一回、百連邦ドルでいいぜ!」
激しい交渉の末、一人の生徒が震える手でスマートフォンから送金を完了させた。
そして、その写真をひったくるように奪い取ると、周囲を警戒しながら、聖なる儀式のようにゆっくりと開いた。
だが、次の瞬間。
彼の顔から歓喜が消え失せ、土気色に変わった。
写真に写っていたのは――腰を曲げ、深い皺だらけの老婆が杖をついてゴミ捨て場を漁っている姿だった。
確かに横から見れば、高く突き出た「亀の甲羅のような背中」が……曲線的ではあったが。
「ペテン師! ぶっ殺してやる! 金を返せ!!」
叫び声を上げながら写真の主を追いかける生徒。前の男は笑いながら逃げ出していく。
「嘘は言ってないだろ! 女か女じゃないかと言えば女だし、曲線がすごいだろ!」
最後列を走っていた六道 飛鳥は、その光景を冷めた目で見送り、小さく首を振った。
「……無知っていうのは、時として幸福なもんだな」
彼は視線を戻し、【真理パネル】を呼び出した。
【宿主:六道 飛鳥】
【筋力:F+】
【持久力:E-】
【速度:E】
【聖力:E-】
【精神:E+】
【聖器:F~EX】
飛鳥は唇を尖らせた。
一般人の限界値はF+。Eランクを超えられるのは超人的な力を持つ者、つまり異態者だけだ。
一年生でこの数値は、通常ではありえない。
彼はスキル欄の項目に目をやった。
【スキル:六船踏】
【説明:蓄積されたXY染色体を消費し、自身の六能力を自由に強化できる。強化の割合は消費量に依存する】
【注意:強化プロセスには同等の外部エネルギー供給を必要とする】
このスキルこそが、一年生にして彼が凡人を凌駕する力を得た理由だ。
特に彼は「精神」属性を優先的に強化していた。
理由は単純だ。精神が脆ければ、恐怖に呑まれて判断を誤る。異獣を前にして脳がフリーズすれば、それは死を意味するからだ。
実戦において、メンタルは筋力よりも重要であることを、彼は前世の経験から知っていた。
「……また減りやがった」
パネルに残った染色体の備蓄量を見て、飛鳥は胸を痛めた。
昨日、グラウンドで「真理」を探究して稼いだ十ポイントが、例のクソッタレなデバフのせいで、日付が変わった瞬間に五ポイントも削られていた。
愛?
冗談じゃない。
これはただの超高利貸しだ。
(そういえば、九条の奴は今頃、女子居住区に着いた頃か)
飛鳥の脳裏に、九条 凛の整いすぎた顔と、昨日別れ際に見たあの「微妙な膨らみ」が浮かんだ。
(女子区か……。あそこなら染色体稼ぎ放題だろうな。俺が潜り込めれば、哲♂学的なポーズを決めるだけで爆稼ぎできるんだが)
だが、彼はすぐにその甘い考えを打ち消した。
女子区の監視と警備レベルは男子区の比ではない。今の市民ランクで強行突破すれば、ハチの巣にされるのがオチだ。
「もっと強くならなきゃな。この世界は危なすぎる」
飛鳥はため息をついた。
彼にとって、スキルの対価となる「エネルギー(食料や金)」の確保も大きな問題だ。
「貯金も底をついた。……やっぱ、バイト(兼業)を探すしかないか」
……
同じ頃。
校舎の最上階、生徒会室。
一人の金髪の男が、窓際で背を向けて立っていた。
彼は特製の金属製ハーフマスクを着用しており、露わになった口元は鋭利なナイフのようなラインを描いている。
男の視線はグラウンドを貫き、のろのろと走る六道飛鳥を正確に捉えていた。
「ふん。素人の分際で、私の獲物に手を出したか」
その声は低く、金属的な震えを帯びていた。
「会長、六道飛鳥に関する資料がまとまりました」
後ろに控えていた男子生徒が、恭しくファイルを差し出した。
「入学以来、性格が奇矯で変態的な言動が多い以外に、目立った成績はありません。昨日の砕武事件も、初期段階では『不慮の事故』と判定されています」
「事故だと?」
会長の口角が、残酷に吊り上がった。
「この世に事故など存在しない。あるのは弱肉強食という真理だけだ」
彼は振り返る。マスクが照明を反射し、冷たい光を放った。
「一年生の『覚醒テスト』……そろそろだったな?」
「はい、会長。来月の初旬に予定されております」
「よろしい」
会長は再び窓の外を見下ろしながら、窓際の石造りの手すりに手を置いた。
「彼に教えてやろう。この学院において、私に盾突くということがどういう結末を招くのかをな」
――パキッ。
頑丈な手すりの石材が、彼の指先の下で、蜘蛛の巣のような亀裂を走らせた。
……




