025 興奮できない?
嬲嫐学院、女子校区の正門前。
九条 凛は、ぼうぜんと立ち尽くしていた。
彼女は今、女子校区の制服に身を包んでいる。
青いプリーツスカートは太ももを隠すのが精一杯で、すらりと伸びた二本の脚が太陽の下で眩しいほど白く輝いている。
非の打ち所がない美少女の姿だ。
だが、今はそんなことはどうでもいい。
問題は、ゲートの向こう側で自分を見つめている「生物」だ。
黒いヘルメットに、黒いロングコート。
薄着の女子生徒たちが集まる中で、その姿は白鳥の群れに迷い込んだ薄汚いカラスか、あるいは山賊の親玉かといった風情で、猛烈な違和感を放っている。
「……飛鳥なの?」
凛はおそるおそる声をかけた。
ヘルメットの奥から、聞き慣れた野太い声が返ってくる。
「偽物なわけねーだろ」
……!
その声を聞いた瞬間、凛の脳内で無数のミツバチが羽音を立てたような衝撃が走った。
本当に彼が来たのだ。
十分前。
寮のベッドに座り、絶望に打ちひしがれながら【私、本当に退学しなきゃいけないかもしれない】というメッセージを飛鳥に送った時、彼女は返信など期待していなかった。
ここは警備の厳しい女性居住区なのだ。
だからこそ、【すぐ行く。校門前で待ってろ】という返信が来た時、凛の第一反応は「またこのバカがからかってる」というものだった。
それが……。
彼は本当に、女子校区の正門に現れた。
しかも、評価に困るほど奇妙な、あの「変態スタイル」で。
「あのバカ……」
凛は小さく溜息をついた。
相変わらず、型破りで予測不能。
常人の神経を逆なでするような行動ばかりだ。
孤児院で共に育った彼女は、この変態のやり口には慣れているつもりだった。
だが、どうしてだろうか。
その黒い影を目にした瞬間、覚醒テストの失敗以来ずっと喉元までせり上がっていた不安が、奇跡のようにスッと引いていくのを感じた。
「あ、あなた……どうやって検問を抜けたの?」
凛が問いかけようとした、その時だ。
「見て! 校門の外に変質者がいるわ!」
「本当だ! この暑いのにあんなに着込んで……連続殺人鬼じゃないの?」
背後から、女子生徒たちの刺さるような陰口が聞こえてきた。
「ねえ、あの変質の前に立ってるのって、一年生に転入してきた九条さんじゃない?」
「ああ、あの人! 男子校区から来た元男子だって噂の……」
「うわぁ……やっぱりああいう変態と知り合いなのね。体が女になっても、男の根性は汚らしいままなんだわ……」
「あんな人が女子校区にいていいの? 早く克制局に通報しましょうよ!」
通りかかる生徒たちが指を差し、嫌悪と蔑みの視線を向けてくる。
凛の顔色が、瞬時に沈んだ。
彼女はひらりと振り返ると、毒を吐いていた女子生徒たちを鋭く睨みつけた。
氷点下まで凍りつくようなその眼光に、生徒たちは悲鳴を飲み込んで口をつぐみ、逃げるように走り去っていった。
「行くわよ」
凛は学生証をリーダーにかざしてゲートを抜けると、飛鳥のコートの袖を掴んだ。
「場所を変えましょう。ここは目立ちすぎるわ」
……
しばらくして。
二人は廃墟となった街区の公園にいた。
かつては旧時代の自然を再現するホログラム投影エリアだった場所だが、フェルムのエネルギー不足により、装置はとうの昔に止まっている。
今は誰も寄り付かない、忘れ去られた場所だ。
隅にある枯れ木の下。
飛鳥はヘルメットを脱いで枝に引っ掛けると、隣に立つ凛に向き直った。
「さて、何があったか話してくれ」
彼は樹の幹に背を預け、眉を上げた。
「覚醒テストに落ちた、ってことか?」
凛は視線を泳がせたが、最後には小さく頷いた。
「……そうよ」
ここに来るまでの道すがら、飛鳥はこの二日間に自分の身に起きたことを一通り話していた。
それを聞いた凛の心境は、複雑極まりないものだった。
あの、学園の広場で堂々と「鳥」を晒していた大変態が、合格率三割以下の覚醒テストを余裕でパスしたばかりか、防衛軍に直接スカウトされて特別任務に就いているなんて。
自分との差に、目眩がしそうだった。
「解放できないのか?」
飛鳥は顎をさすり、不可解そうに尋ねた。
「原因は?」
覚醒テストの本質は、異獣を倒せるかどうかではない。
真の評価ポイントは、異態者が「異武」を解放する資質を持っているかどうかだ。
資質のない凡才は、どれだけ過激な映像を見せられ、脳溢血を起こすほど興奮したとしても、解放度は永遠にゼロのままだ。
逆に、資質があり、生理的に正常な若者であれば、何らかの刺激で興奮状態に入り、基礎的な「半解放」までは到達できる。
本当の難しさは、血肉が飛び散る戦場で恐怖を克服し、いかにして亢奮状態を維持するかという訓練の段階にあるはずだ。
凛には資質があったはずだ。それなのに、なぜ通らない?
飛鳥の追及に、凛の顔は耳の付け根まで真っ赤に染まった。
彼女は唇を噛み締め、泳ぐ視線をどこにも定められないまま、蚊の鳴くような声で絞り出した。
「……興奮、できないのよ」
「は?」
飛鳥は呆気に取られた。
「興奮できない?」
彼は改めて、凛を上から下まで眺め回した。
今の彼女は、外見上はどこからどう見ても完璧な美少女だ。
しかし……。
飛鳥は少し考えた後、探るように言った。
「まあ、お前の状態は特殊だからな。身体が男から女に変わったばかりで、順応できてないのかもな。」
「……テストの時、男性向けとか、その……女性向けの『規制資料』は全部試したのか?」
凛の顔はさらに赤くなり、今にも火を噴きそうだった。
彼女は消え入りそうな声で頷いた。
「……全部、試したわ」
「でも……女の人を見ても、男の人を見ても……ただ気持ち悪いって思っちゃうだけで、全然、あんな風に……ならないのよ」
原因判明だ。
この操り人形のような性転換のプロセスで、こいつの性的嗜好と生理的認知にバグが生じたらしい。
飛鳥はこめかみを揉んだ。これはなかなかに厄介な問題だ。
「そうだ」
飛鳥は何かを思い出したように口を開いた。
「メッセージで『かもしれない』って言ってたよな。ってことは、まだ最終決定じゃないんだろ?」
凛の瞳に、わずかな希望の光が戻った。
「ええ。女子校区の学園長は話のわかる人でね。私のアーカイブを見て、異武の損傷による性別修正の特殊ケースだってことを理解してくれたの」
彼女は深く息を吐いた。
「だから、特例で一度だけ追試のチャンスをくれたわ。……明日の午後よ。でも、全然自信がないの」
「もし明日も不合格なら、本当に退学。……市民権はあるから第五区にはいられるけど、私には何のスキルもないわ」
凛の声には、隠しきれない恐怖が混じっていた。
「異態者として戦えないなら、どうやって生きていけばいいのか……」
もし居場所を失えば、いつか下層街に追いやられ、路地裏で野垂れ死ぬ未来しかない。
凛は未来への迷いと不安に、震えていた。
……




