021 聖獣教
翌朝。
都市「フェルム」、第五区と第七区の境界線。
ここは「上層」と「下層」を分かつ分断線だ。
荒廃した街路の突き当たりには、数十メートルもの高さを誇る合金製の巨大な壁がそびえ立っている。
壁の頂部には高圧電線が張り巡らされ、数基の重機関銃塔が沈黙する鋼鉄の巨獣のごとく、冷徹に下方を見下ろしていた。
その合金壁の中央に、さながら要塞のような威容を誇る巨大建築がある。
防衛軍第七駐屯所だ。
六道 飛鳥はあくびを噛み殺しながら、のんびりとした足取りで駐屯所へと向かっていた。
今日は一応、いつもよりは清潔なスポーツウェアを選んできた。
フロントのジッパーを大きく開け放ち、鍛え上げられた胸筋を惜しげもなく晒している。
昨日、羅川少佐と交わした条件の中に「服装の自由」は含まれているのだ。
文句を言われる筋合いはない。
だが、重厚な防爆鋼鉄門に近づくより先に、フル装備の衛兵二人が銃を構えて立ちはだかった。
「止まれ!」
左側の衛兵が鋭く制止の声を上げ、黒い銃口を真っ直ぐ飛鳥の胸元へ向けた。
「ここは軍事拠点だ。部外者の立ち入りは固く禁ずる!」
飛鳥は足を止めると、苛立つ様子もなく気だるげに片手を上げた。
「おいおい、そんなにカリカリするなよ。俺は六道 飛鳥。あんたらのところの羅川少佐に、今日からここに来るよう言われてるんだ」
「羅川少佐だと……?」
その名を聞いた瞬間、二人の衛兵の身体が微かに震えた。
その瞳には、隠しきれない恐怖の色が浮かんでいる。
まるで地獄からの呼び出し状でも受け取ったかのような反応だ。
二人は顔を見合わせ、左側の衛兵が唾を飲み込んで少しだけ語気を和らげた。
しかし、警戒は解かない。
「……待っていろ」
衛兵は背を向け、肩の無線機を手に取ると、口元を隠しながら小声で何事かを確認し始めた。
数秒後。
無線機からノイズ混じりの音声が響き、氷のように冷たい返答が戻ってきた。
『通せ』
衛兵は深く息を吐き、飛鳥に向き直った。
「少佐は現在、訓練場にいらっしゃる。案内する、ついて来い」
……
衛兵の後を追い、冷え冷えとした合金の通路を抜ける。
たどり着いたのは、駐屯所内部にある巨大な屋外訓練場だった。
一歩足を踏み入れた途端、濃厚な血の臭いと汗の刺激臭が鼻を突く。
ドゴォッ!
「ぎ、ぎゃあああッ!」
悲痛な叫びが響き渡る。
飛鳥が目を凝らすと、広大な砂土のフィールドの中央に、防衛軍の制服を着た兵士たちが何人も横たわっていた。
誰もが顔を腫らし、ある者は腕を不自然な方向に曲げ、またある者は腹を押さえて苦痛にのたうち回っている。
そんな負傷兵たちの中心で、羅川明博は漆黒の鉄塔のごとく静かに佇んでいた。
重量感のある右腕の義手には、まだ乾ききらぬ血痕が付着している。
彼はその義眼で、地に伏した兵士たちを冷酷に一蹴した。
「クズめ! 揃いも揃って使い物にならん!」
羅川の野太い声が訓練場に響く。
「そんな反応速度で、異獣を前に生き残れると思っているのか! 歯の隙間に挟まる肉にすらなれんぞ!」
「いいか、最後にもう一度だけ言う。特別行動小隊にゴミはいらん!」
「死ぬのが怖い奴は、今すぐ後勤部へ行って便所掃除でもしていろ!」
案内してきた衛兵は、その光景に震え上がり、数秒ほど躊躇した後にようやく覚悟を決めて羅川の前へ進み出た。
バシッ、と軍隊式の敬礼を捧げる。
「ほ、報告します! 指定の人物を連れて参りました!」
羅川が猛然と振り返った。
機械の義眼のフォーカスが、瞬時に飛鳥をロックオンする。
彼は飛鳥を一瞥し、そのはだけたスポーツウェアに一瞬だけ視線を止めた後、腕時計に目を落とした。
「ふん、時間は正確だな」
羅川は背を向け、悶絶している兵士たちに冷たい言葉を投げ捨てた。
「今日の訓練はここまでだ! 各自、猛省しておけ!」
「それから、私に三手も耐えられなかった連中……明日の耐衝撃訓練でまた基準に達しなければ、軍法会議ものだと思え!」
言い終えると、彼は兵士たちを見向きもせず、フィールドの端にある小楼へと大股で歩き出した。
「ついて来い」
それを聞き、飛鳥は片眉を上げた。
両手をポケットに突っ込み、ぶらぶらとその後を追う。
……
ほどなくして。
二人は、ソファ一つ置かれていない極めて簡素な執務室に入った。
羅川は重い鉄扉を閉めると、椅子を引き寄せて腰を下ろし、単刀直入に切り出した。
「時間がない。早速だが、貴様の最初の任務を説明する」
壁に寄りかかった飛鳥は、内心で盛大に溜息をついた。
やれやれ。
初出勤だというのに、自己紹介も環境案内も、社員証の発行すらなしか。
いきなり任務に放り込むとは。
(どこのブラック企業だよ。前世の『奉仕型社員契約』を迫ってきたクソ会社よりタチが悪いぜ)
とはいえ、今は手元が心許ないのも事実だ。
早く働いて早く稼げるなら、それに越したことはない。
飛鳥は首を縦に振った。
「わかったよ。で、どんなヤマだ?」
「待て」
羅川は机の引き出しから極秘ファイルを一冊取り出したが、すぐには開かず、飛鳥を射抜くように見つめた。
「校長室でも話したが、最近、異獣の浸食が深刻化している。その理由は知っているか?」
「そりゃ、あれだろ」
飛鳥は投げやりに答える。
「都市防御マトリックスの老朽化に、エネルギー不足。フェルムじゃ子供でも知ってる秘密だぜ」
「それは半分正解で、半分は間違いだ」
羅川は首を振り、義眼の赤光を明滅させた。
「より深刻な原因……それは、『聖獣教』の連中が裏で糸を引いていることだ」
「聖獣教?」
飛鳥の瞳に、微かな緊張が走る。
人為的なもの、ということか。
その名には聞き覚えがあった。
異獣の脅威により「連邦克制条例」という歪な法が敷かれたこの閉塞した世界では、時として常軌を逸した思想が産み落とされる。
聖獣教はその中でも最も悪名高い、狂信的なカルト組織だ。
彼らは異獣を怪物とは見なさず、天が遣わした「神の使い」として崇めている。
彼らに言わせれば、人間の肉体は汚らわしい檻に過ぎない。
異獣に喰らわれることで、究極の「昇天」を味わい、魂を解放して飛翔することこそが救済なのだという。
(……まあ、あいつらの理論は変態的だが、生理学的な観点だけで言えば一理あるのがタチが悪いんだよな)
飛鳥は内心で毒づく。
異獣が生物のXY染色体を奪い取る際、神経中枢に直接作用する「遺伝子剥離感」――。
それは、いかなる薬物や物理的刺激をも凌駕する、言語を絶するほどの快楽を被害者に与えるのだ。
「貴様の最初の任務は、この写真の女を捜し出すことだ」
羅川はファイルを開き、一枚の不鮮明な写真を飛鳥の前へ差し出した。
「名は、ユリ。聖獣教の構成員である疑いが濃厚な女だ」
……




