002 ブラザー
「ん?」
飛鳥が顔を上げると、廊下の突き当たりの窓辺に、一人の銀髪の少年が寄りかかっていた。
少年は彫刻のように整った顔立ちをしており、その美しさは最高級の職人が丹精込めて作り上げた芸術品のようだった。
「よお、九条。九ちゃんじゃないか」
飛鳥はパネルを消し、ニヤリと笑って声をかける。
「こんなところで何してんだ? 俺に会いたくて震えてたか?」
九条 凛は深いため息をつき、呆れ果てた視線を向けた。
「……今日の定期健診のこと、忘れたわけじゃないよね?」
「先生に頼まれて呼びに来たんだ。うちのクラスでお前だけだよ、まだなのは。……健診をサボった後のペナルティ、分かってるでしょ?」
その言葉を聞いた瞬間、飛鳥は股間に冷たいものを感じ、乾いた笑いを浮かべた。
「ははっ、健診な。今すぐ行くよ、今すぐ」
二人は並んで大講堂へと歩き出す。
「お前さ、少しは大人しくできないの?」
凛は、飛鳥の「死んでも治らない」と言わんばかりの態度を見かねて、釘を刺すように言った。
「教導主任室が、もうお前の第二の我が家みたいになってるよ」
「分かってないな」
飛鳥は両手を頭の後ろで組み、悠然と歩く。
「凡人に俺の考えは理解できない。俺は準備をしてるんだ。なんたって俺は、いつか神になってこの世界を変える男だからな」
凛は首を横に振った。彼のたわ言にはもう慣れっこだ。
ふと、凛は何かを思い出したように尋ねた。
「そういえば、僕のロッカーに入れてたポテトチップス知らない? トマト味のやつ、ずっと探してるんだけど」
「あ……あれか」
飛鳥の足がピタリと止まり、視線が泳ぎ始める。
「今朝起きたら低血糖でさ。あいつ、あそこで寂しそうにしてたから、つい『介抱』してやったんだ。いやあ、いい味だったぜ。サックサクでさ」
凛が足を止めた。
廊下の空気が一瞬で凍り付く。
「……飛鳥…………」
低く、震える声。
「あれが……どれだけ節約して手に入れたものか分かってるの? 僕は一枚だって、まだ食べてなかったのに……!」
ヤバい。飛鳥は本能的に察知し、脱兎のごとく駆け出した。
「ははっ! たかがポテチ一袋だろ! 後で十倍……いや、百倍にして返してやるよ!」
「返す!? 何で返すのさ! 今週の食費だって、僕が貸してる分でしょ!!」
凛が猛然と爆発し、弾丸のような速さで飛び出した。
「六道 飛鳥! 逃げるな、止まれ――!!」
……
数分後、学園のグラウンド。
「うわあああ! 助けてくれ! 殺人事件だ!」
飛鳥がグラウンドを爆走し、その後ろを凛が執拗に追いかける。
その光景は、すぐに周囲の生徒たちの注目を集めた。
「見ろよ、あれ六道じゃないか? また『露出』か?」
「いや、今回は服を着てるぞ。後ろから追ってるのは……九条か?」
「嘘だろ、あの温厚な九条がキレてるのか?」
「あいつら同じ孤児院出身だろ? 六道が問題起こすたびに、九条がフォローしてたのに……」
「ついに見捨てられたか。あの変態、毎日俺たちの目を汚しやがって」
「でも……あいつ、体つきだけは無駄にいいんだよな……」
「おい、危ない思想だぞ。連行される前にその考えを捨てろ!」
遠くで、生徒たちが拳を握りしめていた。彼らはかつて飛鳥に絡み、返り討ちに遭った面々だ。
グラウンドでは、飛鳥が逃げながら叫んでいた。
「ケチ! ケチすぎるぞ九ちゃん!」
「そんなんじゃ、将来『マッチング相手』とうまくやっていけないぞ!」
「僕がケチ!? お前が毎日使ってるシャンプーもティッシュも、全部誰が買ってると思ってるのさ!!」
凛は顔を真っ赤にし、左手から目もくらむような光を放った。
背後に強烈なエネルギーを感じ、飛鳥は急ブレーキをかける。
見れば、凛の手にはいつの間にか、細身でどこか物悲しくも美しい銀色の細剣が握られていた。
【異武:白鷺】
「おいおいおい、マジかよ!?」
飛鳥はその剣を指差して叫ぶ。
「許可なく『異武』を使うのは校則違反だぞ!」
飛鳥に言われ、凛は無意識に武器を具現化させていたことに気づき、一瞬ハッとした。
だが、飛鳥のあの「ムカつく笑顔」を見ると、理性が再び吹き飛んだ。
「お前に言われたくないよ! ……まさか、ビビってるの?」
「ビビる?」
飛鳥の口角が吊り上がる。そして、勢いよく右手をかけた。
――ビリッ!!!
上着を力任せに引き裂き、しなやかで爆発力を秘めた筋肉を露わにする。
【宿主の『自由なる姿』を確認。Y染色体+1!】
脳内に響く通知に、飛鳥は内心でほくそ笑む。よし、このリズムだ。
「……な、なんで脱ぐのさ!?」
凛は飛鳥の突拍子もない行動に呆気にとられた。
「どうした、お前こそビビってんのか?」
飛鳥は先ほどの言葉をそのまま返し、鋭い眼光を放つ。
そして、何もない背後の空間へと右手を突き出した。
「見てろ。……ここからは、ちょっと『ハード』だぜ」
――ヴォォォォン!!
空間が震える。
長さ1.5メートル、漆黒の刀身に無数の禍々しい棘を備えた、巨大なメイス(狼牙棒)が虚空から引きずり出された。
その先端は驚くほど肥大しており、息が詰まるような圧迫感を周囲に撒き散らす。
【異武:黒影】
周囲の生徒たちの目玉が飛び出しそうになった。
「あれが六道の異武……『黒影』……?」
「おい、マジかよ……デカすぎだろ……」
「あの形……あの名前……。あいつ、筋金入りのド変態だな!」
飛鳥は重厚な『黒影』を片手で軽々と担ぎ、凛をねめつけた。
「九ちゃん。お前のその細っちい『白鷺』が、最近どれだけマシになったか……見せてみろよ」
「……細っちい?」
凛は歯を食いしばる。
「武器は大きければいいってものじゃない!」
「いいぜ、なら証明してみせろ!」
飛鳥が大股で踏み込む。
『黒影』が轟音を立てて振り下ろされた!
凛は咄嗟に剣を掲げ、それを受け止める。
――ガギィィィィィィン!!!
鼓膜をつんざく金属音がグラウンドに響き渡った。
凛の腕に、まるで山が崩れてきたかのような衝撃が走り、手首が痺れる。
そのまま五、六歩ほど後退を余儀なくされた。
(重い……! 正面から受けてちゃダメだ!)
体勢を立て直し、反撃の機会を伺おうとしたその時。
「パキッ」という、乾いた破壊音が響いた。
時間が止まったかのような静寂。
凛が慌てて左手を見ると、そこには――中ほどから無残に折れた『白鷺』の残骸があった。
「…………っ」
見守っていた生徒たちの股間に、冷たい戦慄が走る。
「嘘だろ……九条の異武が……」
「一撃かよ……たった一撃で粉砕したのか?」
「九条はXXY型の異態者だ。あの剣は彼のY型異武……それが壊されたってことは、まさか……」
飛鳥は手元の『黑影』を見つめ、少しだけ眉を寄せた。
分かっている。『黒影』は硬いが、凛の『白鷺』だって紙細工じゃない。
今の一撃だけで折れるはずがない。……ということは、まさか。
沈黙の後、飛鳥は呆然と立ち尽くす凛へと歩み寄った。
乱れた銀髪、紙のように白い顔、絶望に染まった瞳。
飛鳥はゆっくりと武器を収めると、凛の華奢な肩にドサリと大きな手を置いた。
「ブラザー、落ち込むなよ」
飛鳥は凛の耳元で、誠実さとクズっぽさが同居した声で囁いた。
「……信じろ。お前のそのビジュアルなら、女になるのも悪くないぜ?」
……




