017 相棒(バディ)
パキッ。
神宮寺 蓮の手の中で、金属製の万年筆が無残に真っ二つに折れた。
指の間から溢れたインクが、床へと滴り落ちる。
「……つまり」
神宮寺は折れた万年筆を放り捨てると、ティッシュを一枚取り、ゆっくりと指先を拭い始めた。
「そんな不確かな伝説のために、君は私の命令を無視したというわけか?」
「石田。」
「君を下層区のゴミ溜めから拾い上げ、生徒会に引き入れてやったのが誰だったか、忘れたわけではあるまいな?」
石田はひるまなかった。
むしろ、一歩前へと踏み出す。
「会長! あなたはこの都市『フェルム』の生まれではないはずだ!」
「だからこそ、我々地元住民が抱く恐怖が、あなたには理解できていない!」
石田の瞳には細かな血の気が走り、まるで追い詰められた獣のような形相だった。
「窓の外を見てください! この都市の現状を!」
「『フェルム』は最底辺の『ブラック・スチール級』に留まりすぎた! 都市を浮かせる浮遊エンジンは老朽化し、防衛マトリクスは異獣の侵入を許し始めている!」
「資源争奪戦ではいつも最下位。」
「何の恩恵も得られない。」
「下層区では毎日、合成食糧を奪い合って殺し合いが起きているんだ」
「このままでは、この都市は十年前の第六区と同じ末路を辿ることになる……!」
石田の声は激しさを増し、肩で息をしていた。
「だが、今は違う。我々には六道 飛鳥という『異能の徒』が現れたんだ!」
「彼が成長すれば、『フェルム』がブロンズ級、あるいはシルバー級へと昇格する希望が見える! そうなれば連邦での発言力も増し、生存配当も増えるはずだ!」
「彼は、この都市が生き残るための希望なんです!」
石田は、神宮寺の無機質な金属の仮面を真っ向から見据えた。
「もし『フェルム』の上層部が、学院にこれほどの怪物が現れたと知れば、彼らは何をしてでも彼を守り抜くでしょう」
「会長。今の六道 飛鳥には、もう手出しはできません」
長い沈黙が流れた。
時計の針が刻む「チクタク」という単調な音だけが室内に響く。
神宮寺は石田の咆哮を静かに聞き届け、怒ることも反論することもしなかった。
ただ、使い終えたティッシュを丸め、無造作にゴミ箱へ捨てただけだ。
「……言い終えたか?」
神宮寺は椅子の背もたれに深く体を預けた。
石田は深く息を吐き、姿勢を正すと、懐から密封された黒い金属ケースを取り出して机の上に置いた。
「これは以前、私に『事故』を装わせるために渡された報酬です。手はつけていません。そのままお返しします。命令に背いた罰については……」
石田は静かに目を閉じた。
「殺すなり何なり、好きにしてください。すべて受け入れます」
神宮寺はその金属ケースを一瞥すると、不意に低く、喉を鳴らすように笑った。
「それは返さなくていい。自分で取っておけ」
「それを観た後、一万字の感想文を書いて私に提出しろ」
石田は驚愕して目を見開いた。
「罰については……」
「後で通知する。今は、下がれ」
神宮寺が手を振ると、石田は奥歯を噛み締め、深く一礼して部屋を後にした。
扉が閉まると、神宮寺はゆっくりと腰を屈め、机の最下段の引き出しを開けた。
中から取り出したのは、装丁の簡素な一冊の実体本だった。
黒い革手袋をはめた指先が、その表紙を愛おしそうになぞる。
仮面の下の口角が、狂気と病的な悦びに歪んだ。
「異能の徒……? 妄想境の絶世の天才か……」
神宮寺はその本を鼻先に近づけ、安っぽいインクの匂いを深く吸い込んだ。
その恍惚とした表情は、まるで極上の美酒を味わっているかのようだった。
「いいだろう、六道 飛鳥。君には資格がある……私の『獲物』になる資格がね」
……
同時刻。
嬲嫐学院、男子校区のグラウンド脇。
焼けつくような太陽の下。
飛鳥はグラウンドの隅にある大木の下でしゃがみ込んでいた。
口にエノコログサを咥え、眉間に深い皺を寄せている。
彼の視界の先には、本人にしか見えない【真理パネル】が浮かんでいた。
【宿主:六道 飛鳥】
【X染色体ストック:189】
【Y染色体ストック:199】
飛鳥は鳥の巣のような乱れた髪を苛立たしげに掻きむしり、草を吐き捨てた。
「クソッ、一銭の重みに泣かされるとはな……」
昨日の地下水路での一戦、そしてこの数日間、学院内で「持続的」に自由(♂)の風を振りまいたおかげで、染色体の収穫は上々だった。
合わせて400近いストックがあれば、【六船踏】を通じて基礎ステータスのいくつかを一段階引き上げるには十分だ。
だが、問題があった。
金がないのだ。
ここ最近の食費や諸経費を差し引くと、手元には3000円ちょっとしか残っていない。
これでは「黒電」を買うことすらままならない。
「『劉備』の偽名はしばらく使えないし、新しいバイトの当てもないしな……。学院の任務でも受けて、功勲を稼いで換金するしかないか?」
金策を練っていると、唐突に硬い声が飛んできて思考を遮られた。
「おい、お前が六道 飛鳥だな?」
飛鳥が顔を上げると、そこには陽光を背にした、短髪で痩身の男子生徒が立っていた。
「よお」
飛鳥は目を細め、相手を品定めするように眺めた。
「覚えてるぜ。昨日の地下水路でライフルを撃ってたガキだ。名前は何だっけ?」
「下院一年、佐藤 陽だ」
少年は無表情に答えた。
「ああ、佐藤か」
飛鳥はしゃがんだまま楽な姿勢に変え、両腕を膝の上に乗せた。
「下院の奴が上院のシマに乗り込んでくるなんて、お仕置きもんだぜ? 俺に何か用か?」
「通知はもう届いているはずだ」
佐藤は無駄な挨拶を省き、本題に入った。
「覚醒試験合格、おめでとう。これでお前も正式な嬲嫐学院の一員だ。……もっとも、それは僕も同じだが」
佐藤はまるで報告業務をこなすかのような速さで続けた。
「学院と都市防衛軍の規定により、合格者は正式に編成に組み込まれ、都市内の異獣清剿行動に参加することになる。戦力バランスの維持と不慮の事態を防ぐため、清剿メンバーは固定の四人一組を組む決まりだ」
「標準構成は、アタッカーとして上院から男女一名ずつ。そして火力支援、偵察、後方支援を担当する下院から男女一名ずつだ」
飛鳥はあくびを噛み殺した。
「で? それが俺と何の関係があるんだよ」
佐藤は一歩踏み出し、言い切った。
「僕を、お前のチームの男性サポート担当として選んでほしい」
……




