016 妄想境(もうそうきょう)、異能の徒
「……ごくり」
石田は無意識に腰へ手を伸ばした。
そこには、まだ一振りの電磁ナイフが隠されている。
だが、次の瞬間。
六道飛鳥の、すべてを見透かしたような薄笑いを浮かべた瞳と視線がぶつかった。
そして、巨大ゴキブリの頭に突き刺さったまま、未だに禍々しい威圧感を放ち続ける黒い棍棒。
『黒影』が目に入った。
石田は頭から氷水を浴びせられたかのように、一瞬で正気に戻った。
(俺は何を馬鹿なことを考えているんだ……)
冷や汗が止まらない。
石田は心の中に浮かんだ無謀な考えを即座にねじ伏せた。
冗談ではない。
目の前にいるのは、装備もなしに「通常攻撃」一発でE級異獣を二体同時に葬り去った怪物なのだ。
対して自分は「解放」の制限時間を過ぎ、両腕もへし折れている。
今さら獲物を奪いに行く?
死にたいのか?
それに、何よりも。
彼が動かなければ、自分たちは今頃あの化け物の排泄物になっていたはずだ。
激しい葛藤の末、石田は奥歯を噛み締めた。
重傷の体を震わせ、泥水を踏みしめながら、一歩、また一歩と飛鳥の前へと進み出る。
そして、見守る学生たちが息を呑む中。
プライドの高い三年生の先輩である石田が、一年生の「変態」と呼ばれた男に対し、深く頭を下げたのだ。
「……ありがとう。みんなを助けてくれて」
かすれた声ではあったが、そこには確かな誠実さがこもっていた。
飛鳥は眉をひょいと上げたが、何も言わずにその様子を眺めている。
石田は深く息を吐くと、震える左手を懐に入れ、小さな特製ガラス容器を取り出した。
中には十数ミリリットルほどの、白く粘り気のある液体が入っている。暗がりの中で、それは微かな蛍光を放っていた。
「これを受け取ってくれ」
石田は苦笑いしながら、容器を差し出した。
「さっきのF級ラットを掃討した時に集めた『F級精髄』だ。大した価値はないが……俺からの礼だと思ってくれ」
飛鳥の目がわずかに光った。
座学で習った知識が脳裏をよぎる。
F級精髄。それはE級のように身体機能を高めるものではなく、唯一の用途は異武の「耐久度」を回復させることにある。
XY染色体エネルギーが具象化した武器である異武は、決して無敵ではない。
激しい戦闘や高強度の衝突を繰り返せば、耐久度は確実に削られていく。
放置すれば亀裂が入り、最悪の場合は破損する。
もちろん、F級精髄で修復できるのは軽微な損傷に限られる。
九条凛のように異武が完全に折れ、「砕武」となった状態では、これを使っても手遅れだ。
飛鳥は遠慮なくその容器を受け取った。
今日の戦いで『黒影』は三つのE級V力場を粉砕している。
耐久度もそれなりに減っているはずだ。これは今の彼にとって「必要経費」と言えた。
飛鳥は精髄をポケットに放り込み、先ほど手に入れた緑色のE級精髄を軽く放り投げてはキャッチした。
そして、複雑な表情で自分を見る石田に対し、口角を吊り上げて楽しげに笑った。
「石田試験官、謝礼は確かに受け取った」
飛鳥は異獣の頭蓋から『黒影』を豪快に引き抜き、肩に担いだ。
「それで……覚醒試験の続きは、まだやるのか?」
一日後。
嬲嫐学院、男子校区。
生徒会室。
会長の神宮寺蓮は窓際に座り、骨の髄まで突き刺すような鋭い視線を石田に向けていた。
「……つまり、こういうことか」
神宮寺の声には冷徹な響きがあった。
「計画通りに彼を再起不能にするどころか……合格させた、と?」
石田の体は厚い包帯に包まれ、あちこちに血が滲んでいる。
しかし、その背筋は一本の槍のように真っ直ぐ伸びていた。
「はい、会長」
石田は冷たい仮面を見つめ返し、毅然と言い放った。
「ただの生意気なガキなら、潰して終わらせました。ですが……これほどの才能を持つ異態者を、公私混同で落選させるわけにはいきません」
「才能だと?」
神宮寺は鼻で笑い、身を乗り出した。
両肘を机につき、石田を威圧するように睨みつける。
「服を脱いで暴れるだけのゴミ屑に、何の才能があるというんだ?」
「彼は初陣で『通常解放』を成し遂げたんです!」
石田が声を荒らげた。その激昂した声が、広い室内に響き渡る。
神宮寺の動きが、わずかに止まった。
「信じがたい話なのは分かっています」
石田は深呼吸をして、高鳴る鼓動を抑えようとした。
だが、地下水路で目撃したあの光景を思い出すと、どうしても声が震えてしまう。
「薬物の補助も、規制級の資料も一切使っていなかった! あの血生臭く、いつ命を落としてもおかしくない下水道で……E級の異獣二体を前にして……」
石田は唾を飲み込んだ。
「彼は……自力で『昂ぶった』んですよ!」
室内を死のような静寂が支配した。
神宮寺の仮面の奥にある瞳の色が変わった。
この世界において、異様な破壊力を引き出すためには、精神を極限の「興奮状態」へと追い込まなければならない。
それは本来、生物の生存本能に逆らう狂気の沙汰だ。
大半の異態者は一生を「外物境」で過ごす。
劣悪な環境で規制級の映像を繰り返し見せられ、条件反射を叩き込まれることで、ようやく戦場で状態を維持できるのだ。
それも、許容範囲を超える危険に直面すれば、興奮は一気に萎み、解放状態は崩壊する。
だが、稀に例外が存在する。
外部の刺激を必要とせず、ただ脳内の妄想だけで、あるいは血や怪物を目にするだけで、自ら歪んだ狂気的な興奮を生み出せる者たちが。
「……本気で言っているのか?」
神宮寺の声から温度が消えた。
「彼が『妄想境』に達していると?」
「間違いありません!」
石田は拳を握りしめ、その瞳に狂信的な光を宿した。
「彼が振るった異武からは、高濃度のエロス可視化粒子が溢れ出していた。そして、たった一人で二体のE級を瞬殺したんです。戦闘力は推定でE+級、いえ、それ以上……」
石田は一文字ずつ、噛み締めるように言った。
「会長。」
「彼は、おそらく……伝説に聞く『異·能·の·徒』です!」
……




