012 解放(リベレイション)
「全員、下がっていろ!!!」
石田が吼えた。
その声は声帯が裂けるほどに掠れている。
その怒号は平地を叩く雷鳴のごとく響き渡り、腰を抜かしていた受験生たちを強引に叩き起こした。
補助組の数名が、地面に落としたライフルを拾う余裕もなく、四つん這いになって通路の奥へと逃げ惑う。
ドォンッ!
石田が膝をわずかに曲げると、分厚いコンクリートの地面が網目状に陥没した。
彼は弾丸のごとき勢いで、二メートルを超える暗赤色の巨大ゴキブリへと肉薄する。
空中で、彼は両の拳を激しく打ち合わせた。
――ゥゥゥンッ。
岩石を削り出したかのような、重厚な黒い輝きを放つ巨大な籠手が、瞬時に彼の両腕を包み込んだ。
その表面は荒々しい粒子に覆われ、息の詰まるような威圧感を放っている。
【異武・重岩】
物理タイプ・Y型!
「くたばれ、害虫がぁ!」
石田は腰の捻りを拳に乗せ、右腕の筋肉を爆発的に膨張させる。
狂暴な風圧を伴い、その一撃がゴキブリの忌まわしい三角頭めがけて叩きつけられた!
ズドォォォンッ!
鼓膜を震わせる轟音が地下通路に炸裂する。
だが、肉肉しい感触はない。
石田の拳は、ゴキブリの頭部からわずか数センチ手前で、強引に止められていた。
そこには紫紅色の多角形を繋ぎ合わせたような光の壁が浮かび上がっていた。
重装甲をも粉砕するはずの一撃を、それは「嘆きの壁」のごとき鉄壁の防御で阻んでいる。
凄まじい反動が腕を伝って駆け抜ける。
石田は短く呻き、その反動を利用して後方へ宙返りして着地した。
着地と同時に痺れた両腕を振り、奥歯をギリリと噛み締める。
(硬え……!)
このV力場の強度は、間違いなくE級水準に達している。
だが、不幸中の幸いもあった。
この化け物が発する波紋は紫紅色――すなわちX型異獣。
自身のY型異武であれば、殺しきることは可能だ。
「シャァァァ――ッ!」
巨大ゴキブリが激昂した。
鋼の鞭のような触角が狂ったように舞い踊る。
無数の逆棘が生えた六本の脚が地面を掻き毟り、金属をこすり合わせたような不快な音を立てる。
シュッ!
巨大な口器が大きく開かれた。
それは高速回転するシュレッダーのごとく、強烈な腐臭を撒き散らしながら石田の顔面へと迫る!
石田の背筋に冷たいものが走る。爪先で地面を蹴り、なりふり構わず右側へと飛び退いた。
バリィッ!
ゴキブリの口器が彼の肩をかすめ、特製の戦闘服を引き裂く。
それどころか、背後の鉄筋コンクリートの壁までもが、抉り取られたように大きな穴を開けた。
「張! 時間を稼げ!」
石田が遮蔽物の陰に隠れている副考官に向かって叫ぶ。
張の顔は青ざめていたが、長年の実戦経験が彼を突き動かした。
「補助組、命令だ! 全員、撃て! 火力支援だ、足止めしろ!」
張は腰のホルスターから二挺の大口径改造拳銃を引き抜き、怒鳴り散らした。
しかし、返ってきたのは静寂だった。
後方の補助組の学生たちは、角に固まってガタガタと震え上がっている。
どいつもこいつも、死人のような顔色だ。
中には股間を濡らし、尿の臭いを漂わせている者までいる。
「クソが! 役立たずどもめ!」
張が毒づいた。
その時、カチャリという硬質な装填音が響く。
佐藤 陽が遮蔽物から半身を出し、狼のような鋭い眼光を怪物に向けていた。
彼は徹甲弾を装填したアサルトライフルを構え、銃床をしっかりと肩に当てる。
「おい、お前ら! いつまで女みたいに震えてやがる! 動け!」
陽が怒号を上げ、引き金に指をかけた。
ダダダダダダダッ――!
銃口から狂暴な火花が散る。
陽の不屈の意志を乗せた弾丸の雨が、巨大ゴキブリの頭部へと降り注いだ。
それを見た張も即座に二挺拳銃を連射する。
ドォン! ドォン! ドォン!
大口径のマグナム弾が、咆哮を上げる獣のように戦場へ加わった。
しかし、絶望的な光景が再び繰り返される。
紫紅色のV力場は、揺らぐことさえなかった。
すべての徹甲弾、マグナム弾の弾頭は、光の壁に触れた瞬間に粘土細工のように潰れ、虚しく地面へと落ちていく。
火花が散り、硝煙が立ち込めるが、ゴキブリには傷一つ付いていない。
巨大ゴキブリにとって、それらは「痒いところを掻く」程度の攻撃ですらなかった。
巨大な複眼が、弾幕を浴びせ続けている陽と張をロックオンする。
巨体を翻し、六本の脚に力を込めると、それは暴走する戦車のごとき勢いで二人を蹂躙せんと突っ込んできた!
……
その頃。
石田は通路の暗い隅へと退がっていた。
壁に背を預け、激しく肩で息をしながら、震える指で黒いスマートフォンを取り出す。
虹彩認証を突破し、画面を開く。
アプリ「嬲嫐視界」を起動し、ブックマークを開いた。
そこにあるのは、学院から配布された「管制級資料」――。
彼の指は、「AA級」と記された極秘映像の上で止まった。
再生ボタンを押す。
石田は血走った目で画面を凝視した。
腐臭が漂い、生死を分かつ極限状態の地下通路。
すぐ傍では戦友の怒号と怪物の咆哮が響いている。
その中で、彼は「これ」を見なければならないのだ。
三十秒。
石田の呼吸が、古びたふいごのように重く、荒くなっていく。
一分。
額に青筋が浮かび、顔が真っ赤に上気する。
言いようのない熱い塊が、下腹部から脳天へと突き抜けていく。
異態者が真の力を発揮し、異武を「解放」するためには三つの壁を越えなければならない。
一つ、自らの手で異獣を屠り、血の味を知った「経験者」であること。
二つ、肉体を極限の「絶頂亢奮状態」へ自然に没入させること。
薬物に頼ってはならない。劣悪な触媒は解放の威力を削ぎ、時には自身を蝕むからだ。
三つ、解放の資質を有していること。
彼が先ほど口にした「第二段階のテスト」とは、この映像の閲覧権限を新人たちに与え、誰が「鑑賞」しながら「解放」を覚醒させるかを見極めるためのものだったのだ。
「おおぉぉぉっ――!」
石田の喉から、獣のような低い咆哮が漏れる。
その眼球は真っ赤に充血していた。
「――解放!」
ドォォォンッ!
言葉と共に、両腕の【重岩】が目も眩むような蒼い光を放った!
光の中で籠手はその体積を倍以上に膨らませる。
荒々しかった表面がバリバリと音を立てて裂け、そこから長さ三十センチにも及ぶ鋭利な岩の刺が突き出した。
先ほどまでとは比較にならない、圧倒的なオーラが石田の全身から爆発する。
彼は目の前の遮蔽物を蹴り砕くと、怒り狂った猛牛のごとき勢いで戦場へと躍り出た!
その頃、巨大ゴキブリは陽と張を袋小路へと追い詰めていた。
巨大な影が二人を覆う。
チェーンソーのような二列の顎が、不快な音を立てて擦れ合う。
滴り落ちた腐食性の涎が、陽の足元の地面をドロドロに溶かした。
陽は最後のマガジンを撃ち尽くし、熱を帯びた銃身を固く握りしめる。
その瞳に屈服の色はない。
あるのは死の間際の狂気だけだ。
「どけえぇぇぇ――ッ!!!」
爆発的な咆哮と共に。
石田が神のごとき速さで飛来した。
解放された巨大な籠手が、空気を切り裂く鋭い風切り音を上げ、巨大ゴキブリの右側の甲殻を真っ向から捉える!
ゴゥンッ――!!!
その一撃は、まさに隕石の衝突。
二メートルを超え、数トンの重量を誇る巨大ゴキブリが、紙屑のように横へと吹き飛ばされた。
三本の太い支柱をなぎ倒し、ようやくその勢いが止まる。
それ以上に戦慄すべき光景があった。
ゴキブリの体表を覆っていた紫紅色のV力場が、岩刺の重撃を受け、ガラスが砕けるような鋭い音を立てたのだ。
目に見えるほどの巨大な「亀裂」が、衝撃点からみるみるうちに広がっていった。
……




