アイの代わりに(1)
1、
愛情は鈍器だね。先生はこう仰いました。
さて鈍器。世に憚る鈍器とは凶器のことであり、現代日本において凶器としての性質を除いてほぼ出現しない表現でしょう。人間を傷つけたり殺したり、奪われて逆に殺されたりする、本来とは異なった用途で振るわれる不憫な物体全般です。
ではいったい何が鈍器であるか。土産屋で買われた熊の置物、あの微妙に場所を取る処分に困る厄介者であったり、作業現場の鉄パイプや意味もなく綺麗に磨かれた天然石製の灰皿、家族にも使用者にも文句を言われつつ鈍色に輝くゴルフクラブ、数時間前ワイシャツの皺を伸ばすために使われたばかりのアイロンであったりします。
大抵の場合は役に立つ人工物を例に挙げることになるでしょう。これらに共通することは適度に密度があって、相応に重く、本来人間を殴るものではない点です。
これこそ愛情です。
嗚呼、なんて適格な比喩。固くて重くて黒光りする愛情でぶん殴られたとき、当たり所が悪ければ人間は死ぬのです。
鈍器と表現されるには故意が必要です。不慮の事故で人が死んでも鈍器とは滅多に呼ばれません。
先生は殺人だけが鈍器の役目ではないと別の比喩を持ち出しました。言葉は刃物であると小声で続けたのです。
なるほど見えない傷ほど恐ろしいものはありません。星の王子さまにも大切なものは目に見えないとありましたが、どんな名医も、目に映らない、手の届かない場所にある傷を縫うことは出来ませんから、つまり治療不可であることを意味します。
言葉によって穿たれた人間は涙や血と似た何かを失い、限界を超えたとき結果として死が現れるのです。
私はこうして順序立てて話を展開させていかねば混乱してしまうのです。
先生は語りすぎることが多々ありまして、最初に選んだ言葉を曲がりくねった道に似た余計な解説で飾り立て、言い訳を混ぜることによって昏く濁らせ、本質から遠ざかる姿をよく見かけましたが、それこそご愛敬でしょう。
彼我が隔てられている以上、話者と聞き手のあいだには決して埋まらぬ溝が存在するのです。この空隙こそは必要な距離感と呼ぶべきであり、巧拙に拘ろうと誠意を尽くそうと決して同一にはなり得ず、最後に己が残るのみ。
であれば、どう受け止めたところで真実などひとつとしてなく、我と汝、己と彼、自分と相手、ただひたすらに中間のみがぼんやりと浮かんでいるわけで、それは愛情や言葉の一つ手前にあり、あるいは蜘蛛の糸ではなく、未だ生まれず、生まれつつあり、そして生まれた次の瞬間には儚く消えゆくことが運命づけられたもの。たった一瞬の煌めきに過ぎぬがゆえに、私はこれほどまでに外側を言葉で埋めようとしているのです。
それでも不意に言葉にされたあの一声。
愛情は鈍器。この表現が私を震えさせた理由を知って欲しい。
だから先生は、先生なのです。私には先生が幻想のごとく、あるいはおとぎ話に出てくる存在に思えて仕方ありませんでした。取り替えのきく登場人物の一人ではなく、開けてはいけない箱、覗いてはならない部屋、そうした触れてはならぬ何かと同じものだと。
物語において用意された禁忌は必ず犯されなければならない。愚かさゆえの過ち、その結末を他者に見せつけるために。
私には分かっていました。
愛情と同じ、言葉と同じです。使い方さえ間違わなければ、それは日々をずっと豊かにしてくれる、そして満たしてくれることでしょう。けれど先生がもし先生でなくなる日が来るとすれば、それはきっと私が間違えてしまった時なのです。




