ながなきとり(8)
8、
本当に出ていくのだと思うと今になって寂しさが胸を打った。
飛ぶことを忘れた鳥は、いつしか自由の意味さえ分からなくなった。
鳥かごの入り口は開け放たれていた。在るべき空を思い出させるように、拾い主は何度となくこう言うのだ。
おまえは自由だよ、と。
この身体に翼はなかったけれど、足はあった。進める限り、前に向かって歩いて行かなければならなかった。
そう仕向けたのは、とおこさんだった。たとえ本人が意識していなくとも。いつか過ごした日々を、どれほど感謝していたか伝えられたらいい。穏やかな日々に、どれほど救われたか伝えられたらいい。
後悔なんてしない。
ふと、彼の背中に触れたことを思い出す。
広い背中だった。がっしりとしていた。あんなに堅い背中だとは思っていなかった。
近づいても煙草の臭いはしなかった。
汗と油の入り交じった匂いは嫌いではなかった。
もっと早く色んなことが違っていたら、もしかしたらあのひとのこと、ちゃんと愛せていたのかもしれなかった。
マンションの玄関先から振り返り、八階にある部屋を見上げた。
人影は覗けなかったが、高層の窓ガラスにすっと横切る影ひとつ。その行き先を追うつもりで目を懲らしたが、一瞬で真白い光に紛れ、蒼く澄んだ空の最中で見失った。
諦めて歩き出すと、右手側に植えられていた躑躅の気配に一度足を止められた。
もはや見慣れた光景ながら、分厚く溢れた濃い緑に混じって花の紅白が膨らみ、通りがかりに満開を見せつける。鬱蒼と華やかさの混在は実に見事だった。
さらに大きく一歩を踏み出すと、後ろから吹いた風に呆気なく追い抜かれた。
頬を撫ぜ、去っていったのは光を含んだ風だ。
ため息ひとつこぼして、整理された鞄の奥に腕を差し入れた。
底に敷いた黒い厚紙を動かすと、わたしの指先が堅い感触を突き止める。人差し指と親指を使ってその長方形を取り出し、抜けるように開け放たれた天に翳した。
躑躅の茂みで擦れ合う葉音を聞き届け、ひとつ大きく深呼吸。降り注ぐ眩さ、すべての輝きを置き去りにして、あとは歩みを早めるだけだった。 (了)




