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クリスタライズ  作者: 三澤いづみ
綾子のために

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12/31

あるいは綾子嬢に捧ぐ最後の花束(5)


5、

 全員黙り込んでいた。転覆はしなかった。舟から投げ出された者もいなかった。長瀬さんは笑っている。気持ち悪いくらいの純粋な笑顔だ。

 船頭さんは微笑んでいる。予定通りと言いたげな表情だ。

 わたしたちは振り回されている。この舟はいったい何なんだろう。どこに連れて行かれるのだろう。なぜ舟に乗らなければならなかったのか。何一つとして分からない。答えを知っていそうな船頭さんの言葉は信じられず、わたしたちには寄る辺もない。

 生きていない人間には何もないのだ。言葉を交わすことはおろか考えることだって出来ない。今はおまけだ。終わってしまった人生に無理矢理付けられた冗長性。

「こんなこと、神様はお許しにならないわ」

「あらら、びっくり。佐和子ちゃんはキリスト教徒だったの」

 遠藤さんの声は震えていた。船頭さんは真顔になった。

 信仰している宗派や掲げるお題目によって死後の対応が変わるのだろうか。二人のやりとりは無駄に厳かな気配をまとい始めている。ロシア文学よろしく思想を争うメロドラマが始まるかと危惧していると、遠藤さんは睥睨し発する声を鋭くした。

「違うわ。うちは浄土真宗よ。でも」

「高度に一般化された神様ね。どこぞの山の神と契約した、とか言い出したらどうしようかと思っちゃった」

 長瀬さんが指摘したように彼女は死神だ。船頭さんは拗ねた顔で話を続けた。

「佐和子ちゃん。神様が許すとか許さないの問題じゃないわ。許すとか許さないってのは人間が人間のために作ったルール上の話であってね」

「ひとを弄ぶのも大概にしてちょうだい」

「話聞いてないねー。いや、だからね」

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」

 念仏まで唱えだしてしまった。手に負えないとばかりに彼女は苦笑した。

「お姉さんさ、少し黙って」

 表情を硬くした長瀬さんが言った。ずっとにこにこと笑っていた彼は船頭さんが語り出したあたりから顔つきを変え真摯に耳を傾けていた。

 声に込められた凄みに遠藤さんは悲鳴を漏らした。

「神様って本当にいるの」

「長瀬正義くん。あたしが答えたそれを信じられるのかしら」

 質問に質問で返され、長瀬さんは皮肉そうに口元をゆがめた。

「信じるよ」

「……貴方が欲する全能の神様は、確率の別名よ。どこにもいて、どこにもいない。神の御業たる奇跡も同じ。偶然でも必然でも、そこには起こるべくして起こる。そのとき、そこに神がいる」

「だったら、原罪は?」

「あたしの専門外だし、そういうのは向こうの担当に聞いて欲しいんだけど。いや、苦悩する若者からの本気の問いだし、答えるにやぶさかではないわ。でもね」

「答えて」

 真剣すぎる長瀬さんに、船頭さんはどこか悲しげに肩をすくめた。

「罪悪感よ。人間と動物とを分ける唯一にして最大のものね。まあ、人間のルールの中で暮らすペットなんかはそれを抱いちゃうこともあるみたいだけど」

「それは、良心とは違うの」

 幼い子供のように、言葉を選ばずに投げかけられた質問に、船頭さんは顔にますます悲哀の色をにじませた。

「正しさそのものと、正しいことをする、くらいには違うかな」

「そっか」

「そうそう。だからあんまり気に病まないの。たかがひとを殺したくらいで」

 ぎょっとした。わたしも安井さんも遠藤さんも、船頭さんがさらりと漏らした言葉の意味を理解するより早く、言葉の音と込められた憐憫の響きに反応したのだ。

「あ、あなた、何を言って」

 よく口を挟めると驚愕した。遠藤さんの勇気は強烈だった。安井さんが困り果てた顔でわたしに助けを求めていた。

 わたしだってこの場から逃げたいが、どこにも行き場のない状況である。舟の上であり死者の国の半ばだ。敬虔な外国人ならジーザスとか叫んでいる場面だろうが、わたしは誰に救いを求めればいい。

 長瀬さんがうろんな眼差しで船頭さんを見上げている。

「人間の数だけ正義が存在する。良い言葉よね。真理は正しいから正しい。素晴らしいものは素晴らしいから素晴らしい」

 船頭さんはいくつかの宗教と、その開祖の名前を並べた。

「最初の考えがそのまま最後まで残った例は無いわ。どんな言葉も、どんな想いも他人に伝われば、その時点で絶対にねじ曲がる。残るのは輪郭だけよ」

 どれも逃れられない苦しみを軽減するために作られたのだと。理由や結果を分析し解決案を作ったり、そもそも苦しさが生じる原因を取り除こうとしたりした。

「どんなルールの制定にも理由がある。誰しも自分に都合良く作るわ。それが他人にも都合が良かったから良いものとして取り入れられた」

 滔々と語られた言葉に長瀬さんはほとんど恍惚としていた。

「長瀬くん。君が他人を殺しても罪悪感を抱かなかったことは君のせいじゃない。君の周りが悪いんだから」

 船頭さんは打ち震えんばかりに感動している長瀬さんを見つめ、まるで光輝をまとった慈母のごとき微笑みで、さらにこう告げた。

「なんて、ね。こんな適当なご託を信じちゃだめよ。あたしの言葉には何の真実も含んじゃいない」

「え」

「こんなの、神の見えざる手と同じよ。昔、毎日千人殺すって宣言した女に、だったら毎日千五百戸の産屋を建てると言い返した男がいたわ。それと同じで、今の答えは肯定でも解決でもない。貴方の問題を解決するのは神じゃないわ。人間よ」

 長瀬さんは、ぽかんとしていた。笑ってはいけないと分かっているし、そんな空気ではないが、船頭さんからにじみ出ていた投げやりな感じがひどくおかしかった。

 遠藤さんが息を呑んでいたあたりも、安井さんが勝手なストーリーを想像して同情の視線を送っていたことも滑稽だった。

 長瀬さんの半生なんてどうでもいいことだ。どうせもう死んでいるのだ。

「喜ぶ前にあたしの言葉ちゃんと聞いてたのかしら」

 淡々と告げられて、長瀬さんはうなだれた。誰も声をかけない。どうするべきが正しいのかが分からないからだ。

 様子見するしかない。正しくないことをしてしまったあと、それを挽回することの難しさを知っているからだ。

「あはは。ひどいなあ。あたしはそんなに怖くないのに」

 わたしは彼女の笑みを真正面から見た。顔面にあるパーツはひとのそれと全く変わらないように思えるのに、その目と目のあいだ、鼻から口までの距離、あらゆるものの隙間が空漠としていた。

 この舟の上で唯一、色を内包している彼女はとてもじゃないが安心できる存在ではないことに、今になってようやく理解が追いついた。

 わたしをにこやかに見つめてくる瞳の奥には暗い宇宙が無限に広がっている。その底なしの暗黒に数多の煌めきが瞬いている。まるで星々が鏤められているかのようで、わたしはその中に吸い込まれていく。ぱっちりとした大きな瞳だけではない。整った顔立ちの鼻の滑らかな曲線は、どこまでも美しい流れがぐんぐんと伸びていって終端というものが見つからない。アキレスと亀の競争のようで無限に分割された一瞬が連続し続けており、鼻であるからには必ずひとつの形状として存在しているにもかかわらず、そのすべてを細部より認識しようとするとどうしても一度に把握しきれなくなってしまう。

 誰も無限を真に認識することが出来ないのと同じだ。

 零のように、虚数のように、神のように、あると仮定して定義づけそれを利用することは誰にでも可能だが、相対ではなく、そのままに理解することの困難は生者が思い描く己の死と似ており、この永遠にも等しい輪郭の正邪をわたしは決して把握できない。



「おい。おい」

 はっとした。安井さんが肩を揺さぶっていた。船頭さんはぺろりと舌を伸ばし、その艶のある形の良い唇を舐めて、わたしから視線を外した。

「大丈夫か」

 頷いた。船頭さんの様子を窺おうとしたところで向こう側から同じような舟が進んできて、ちょうどすれ違うところだった。

 あっちの船頭は男性だった。作務衣を着ていて、表情は頑固そうで、いかにもといった雰囲気だった。こっちの船頭さんとは何もかも違った。目を惹いたのは向こうの船頭さんにも色があったことだ。舟の乗客にもちゃんとした色が乗っていた。

 わたしと彼らは何が違うのだろう。きっと何か意味がある。違うとは、同じではないということ。

 わたしが失ってしまった自分はそこにいて、ここに残っているわたしは、影や残骸みたいなものなんじゃないかと考えた。

 安井さんに、じっと見られていた。船頭さんの怖気の走る視線ではなく、大人が子供を心配する眼差し。冴えないサラリーマンとして彼を見ていたことを反省した。安井さんにも、長瀬さんにも、遠藤さんにも、きっと自分だけの人生があった。

 彼らなりに日々を生きてきて、今こんな形で同じ舟に乗って、どこかへと運ばれようとしている。

 川の流れは速く、向こうの舟はあっという間にどこかに消えて、気づいたときには影も形も見えなくなった。色を持った乗客の女の子の顔を見ることは出来なかったけれど、彼女も死んでしまったのだと思うと、なんだかひどく切なくなった。

「さっきの子のことが気になるかしら」

 船頭さんから聞かれた。長瀬さんは顔を下に向けたまま身じろぎ一つせず、遠藤さんはわたしと目が合うと首を横に振り、彼女の話を聞くなと視線で伝えてきた。

「やめとけ。どうせろくな話じゃない」

 安井さんがはっきり声に出して制止してくれた。少しだけ丸まった背中にもかすかな男らしさが滲み、わたしを見つめた瞳からは一切の色欲が抜け落ちていた。

「安井さん。良かったわね。あなたが庇った女の子は助かったらしいわ」

 彼女はわたしたちを玩弄するために言葉を用いる。

 きっと残酷な言葉だ。安井さんは怒りとも泣き顔ともつかぬ奇妙な笑顔で、ゆっくりと船頭さんの顔を見上げた。


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