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クリスタライズ  作者: 三澤いづみ
綾子のために

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13/31

あるいは綾子嬢に捧ぐ最後の花束(6)


6、

 耳を塞ぐための手はあった。それをするために必要な我慢は存在しなかった。わたしは安井さんが彼女の言葉によって肩と唇を震わせる姿を眺めた。

「道に飛び出した女の子を庇って大型トラックに轢き殺された安井さんはね、一躍街のヒーローになったのよ。別居していた奥さんも娘さんも口をそろえて、あの人は素敵なひとでした、みたいなコメントをしてくれてたって。良かったね」

「何が、いいんだ」

「ほとんど離婚寸前だったし。それが物言わぬ帰宅だけど二人から泣いてもらえた」

「俺は」

「そこを歩いていた理由が奥さんと縒りを戻すためで、駄目だった場合を考えて包丁を懐に隠し持っていたとしてもね。良かったじゃない。安井さんが生き残ってたら、きっと奥さんも娘さんもこれから幸せになれなかった。死んでくれた方が他の人が幸せになれる人間って確かにいるのよ」

 のろのろと顔を上げた長瀬さんは薄笑いを浮かべて遠藤さんを見た。

「私のことを言っているのかしら」

「神様の思し召しね。みんな神様のせいにしていいのよ。神様は、そのために作られたんだから」

「私が陰では娘に死ねばいいのにって言われていたことも、それを聞いた孫が寝たきりだった私を窒息させたことも、みんなありうべき結末だったと」

「娘さんや孫達のことを考えたら、早いうちに消えるべきじゃない」

「そんなことは認められないわ」

「長瀬くんもそう。君が死んだのは遺族会の仕業よ。すごいわよね、他の住人もいたのに丸ごと一棟燃やし尽くしたんだから」

 船頭さんは微笑んだ。

「人間なんて生きてるだけで他のひとに迷惑をかけるけど、死んだ方が喜ばれるくらいになっちゃうと辛いだけね。死は救いじゃないけど、それでもひとつの終わりだもの」

「終わってないじゃん。全然終わってない」

 ずっと黙っていた長瀬さんが絞り出すように声を出した。

「みんなには納得してもらわないといけなかった」

「おれ、納得なんかしてないよ」

「大丈夫。救われたりはしないわ。輪廻転生なんか存在しない。もう二度と生まれることもない。ただ消えるだけ。死んだら終わりよ。その後なんてものはない。だから安心していいの」

「あ」

「さよなら」

 長瀬さんは消えた。呆気なかった。急に恐ろしくなった。

「私は、あんな風には」

「佐和子ちゃんには悪いんだけど。もう必要ないから舟から降りてちょうだい」

 船頭さんは笑顔で櫂を振り回し、遠藤さんを突いて舟から突き落とした。悲鳴を挙げる暇もなく、遠藤さんはどぼんと音を立てて水中へと落ち、透明で底のない川へと沈んでいった。恨みがましい視線は、わたしと安井さんにも向けられた。水中に着物がゆらゆらと揺らめくが、その動きが完全に見えなくなるまで長い時間はかからなかった。

 細かな泡がしばらく昇ってきたが、舟は動いてその場から離れた。わたしと安井さんは暴挙から身を守ろうと構えた。

 舟の上で立つことは難しく、立ったところで対抗する術が無い。無駄な抵抗であることは理解していたが、それでも二人のような目に遭うことは許容できなかった。

「大丈夫大丈夫。あなたたちには、もう少しだけ猶予があるわ」

「待て。待ってくれ。この子をあんな目には遭わせないでくれ」

「どうしたの安井さん。庇護心に目覚めちゃったとか」

「俺たちはもう死んだんだ。理解した。納得だってした。なのに、追い打ちをかける真似をしなくたっていいだろ。遠藤さんはどうなったんだ。長瀬くんは」

「安心して。もう何も考えなくていいのよ。安井さんも、もう苦しまなくていいの」

「やめろ。俺だけにしろ。この子に手を出すな」

「安井さん。正しいことは自分に都合のいいことを意味しないわ。自分の正しさを疑わないひとは罪悪感なんて抱きようがないのだから」

 船頭さんはずるい。

 わたしは前に出た。安井さんは言われっぱなしで反論しなかった。

 船頭さんはわたしと目を合わせずに口を開いた。

「色は、見えてるのかしら」

 話を逸らすつもりなのだと思った。脈絡のない言葉だ。なのに、どうしてか船頭さんは大事なことを語ろうとしている気がした。

 少し迷って頷いた。船頭さんに色があると。いや、途中で見えた桃や、すれ違った舟の乗客にも色があったと。戸惑いながら答えたわたしに、視界の隅で安井さんは首をかしげた。もしかしたら、とても単純なことなのかもしれない。

 今こそわたしは大きな秘密に触れようとしていた。

 三途の川。渡し守。桃の木。人影。すれ違った舟。そしてわたしたちは死者で、透き通りながらも色の失われた空と水面はどこまでも果てしなく続いている。わたしはすべてを知り得ないことを知っている。それに落胆したり失望する必要がないことすらも。


 一切が死に際に見る幻覚であればなんて面倒なものだろう。本人に意味を咀嚼させることもできず、自分という輪郭は認識できず、過去の記憶は泡沫のまま、名前というラベルさえ剥がされて、無窮に漂い、自分を自分たらしめるものはこの思考のみ。

 色。

 学校で習った。色とは光の波長であり、その反射の量と種類。物体に吸収されてしまった光と、されなかった光の結末。そしてその結果を受け入れるための視覚。

 どうして色が見えるのか。どうして色が失われているのか。物体と視覚だけでは色にはならない。光と物体だけでは色は見えない。光と視覚だけでは色に意味がない。

 自分。

 いや、わたし。

 彼岸と此岸とはよく言ったものだ。波はすべてを浚っていく。無意識の海にたどり着くまで。仮初めに知覚を彷徨いながら失われ得ぬものを探し続けるなんて。

 安井さんがわたしの顔を覗き込み、声をかけてくれていた。おい。おい。知り得ぬ名前を呼ぶことも出来ず、それでも。嬢ちゃん大丈夫か。あいつに何かされたのか。そう心配してくれている。嬢ちゃん。わたしを表す言葉。どう見られているのかという言葉。こんな時にまで少しばかり同舟しただけのわたしの状態を憂えてくれているあたり本質的には優しいひとなのだろう。

 安井さんの毛深い手に肩を掴まれ、そのごつごつとして配慮に欠けた指先の力のかけ方を肌に感じながら、ヤニの臭いの混じった口臭が鼻に届くより早く、じいっと瞳の奥までを注意深く観察するような視線に絡み取られ、ああ生きているときにこんな大人に出逢っていたら何か変わっていたのだろうかと震えるほどに強く悔恨したのだが、しかし表層的には彼はわたしがもっとも嫌う性質の男性と何ら変わりないことは想像に難くなく、とすればわたし自身寄せられた心配の声と世間体を気にする叱咤との区別もつかぬままに差し伸べられた手と捕獲するための網とを見誤りながらみっともなく逃げ惑い、必死になって身をよじり、過ぎてゆくに任せられぬ一切を全霊を持って拒絶したに他ならず、この夢に等しい時間と足下の砂とを一緒くたにして機会ごと投げ捨てていたに違いない。

 神様なんていない。

 少なくともわたしが求めた都合の良い神様はいなかった。確率あるいは運として振る舞う神様はわたしを見捨てなかった。けれどわたしはその神様を憎んだ。

 だから死が救いにはなってくれず、生きることは苦しいばかりで、世に溢れる煉獄と頭の中に生まれた地獄へは容易く帰り着くことも許されず、愛は目に見えず、成就すれど恋はあえなく燃え尽きて、残るのは息苦しい天国ばかりで、誰か助けてと叫べども、わたしたちの声は決して聞こえることはない。穢れは洗い流せても、他人に押しつけても、なお澱のように溜まり続ける。

 わたしたちは呪いのように生きて、祝福されながら死んでいった。

「ねえ。ありもしない答えを探すのはやめた方がいいわ」

 洪水めいた思索に没頭していたわたしは、彼女の甘やかな声に素早く顔を上げた。厳しい声だった。たとえば母が子に向けるみたいな。

 誰かのためを思うとき、それゆえに優しさが違う形を取るように。傍目には違いが分からない二つのものは、しかし決して同じではない。雲の裏には太陽が隠れている。星は見えなくとも空の上にある。愛は語られなくとも心の中にある。そう信じることがどんなに幸せか、わたしはきっと知らない。

 彼女にかける言葉を、わたしは探し続けていた。始めにあった言葉を。

「どうして」

 か細い声で投げかけられた問いに、答えは求められていなかった。


 不意に安井さんの姿が消えた。木製の舟は、砂で描かれた姿に書き換えられていた。空は澄明さを増し、突然オレンジ色の闇がわたしたちの前に現出した。

 わたしは見つめた。彼女の姿を。

 何かが違った。いや、変わっていた。小さな舟はいつしか川を離れ、夜の海を音もなく進んでいた。揺れは穏やかで、彼岸も此岸もどこか遠くに消え失せて、ゆっくりと流れに逆らっている。

 彼女はもう漕いでいない。手にしていたはずの櫂はどこにも見えない。

 見渡す限りに深い闇が果てなく広がっている。あたりは静寂で満ちていて、目線を上げると数多の星々が震えている。明滅する光がわたしたちを冷たく照らす。見上げた夜空には滑らかな暗黒が敷かれていた。遙か先、光など届くとも思えない暗闇の向う側にもぼんやりとした輝きが見て取れた。

 作り物の夜の海を、舟は軌跡を残して前にゆく。舟の後ろに零れ落ちる金砂めいた煌めきは、まるで生まれたての星だった。凍えるような虚無を撥ね除けながら、わたしたちの流れてきた道のりを瞬きながら教えてくれた。このささやかな灯火は、時にわたしたちの杳とした行く末を照らし、時に置き去りにされた影の輪郭を薄めながら、仄かにこの胸の奥を暖かくしてくれる。

 船頭さんの視線を追った。ひそやかで不確かな暗青の海を溶かし、銀色の月影が顔を出す。彼女は耳を澄ませるようにして息を潜めた。わたしも倣った。やがて暗い紺青は広がる淡色の光に悉く塗り替えられていった。闇が取り払われた頃、透明な橙と紫、そして寂しげな青の階調が生まれ、溢れ、どこまでも清澄な空気と水の世界を飲み込んでゆくのをわたしは見た。

 薄明に燃え盛る払暁を鮮やかに切り裂いて、一層の舟がゆく。

 真っ白な雲の海を光の指し示す方へ。

 すべては輝いていた。変わり果てた砂の舟には二人が乗っている。優しい彼女は口をつぐみ、わたしのことなど忘れたように強い光を見つめている。

 舟は進む。

 さらさらと、きらきらと、誰も見たことのない喜びの海を、わたしたちも知らない世界の果てへと、崩れゆく砂の舟の上で、惑いと畏れに竦み、それでも笑いながら、すべてのひとがいつか辿り着く場所を目指して、命の流れの中心へと吸い込まれてゆくように、もはや嘆きもせず、悲しみもせず、どうか安らかに、前だけを見て、見続けて、いつか眩いほど美しい夢の淵をゆっくりと通り過ぎてゆくみたいに。

 命は尽きる。夢は終わる。声は消え失せる。

 あれほど輝いていた星々は、満ちた光の中に溶け、幽かに埋もれてゆく。

 振り返った彼女を見つめ、わたしは辿り着いた答えを確信を持って告げる。

「愛していた。きっと愛していたから」

 過去形で語るしかないわたしのすべて。この先にはもはや誰もいない。何も無い。それでもかまわなかった。

 ひとつだけ伝わりさえすれば。

 誰かに、何かに、ほんの少しでも届きさえすれば。



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