あるいは綾子嬢に捧ぐ最後の花束(4)
4、
わたしの背の高さはこの四人のなかでは一番低かった。
一番背が高いのは安井さん。よれよれではないスーツを着て背筋をピンと伸ばしている姿であれば様になるのかもしれない。二番目はたぶん船頭さん。長瀬さんと並んで立てば実際が分かるはずだが、そこまでしてもらうつもりもない。
遠藤さんは姿勢が綺麗だけれど、低めに見えた。安井さんの足がやたらと短ければ船頭さんの逆転勝利もあるだろう。そんなくだらないことを考えていたせいか、いつの間にか再開していた話に加われなかった。
「身の上話、ねえ」
「ずるいだろ。俺だけ知られてるなんて。あんたらのことも少しは話せよ。なあ」
「いい大人が若い子の胸に泣きついている場面ですものね。恥ずかしいわね」
一声呻いて安井さんが口ごもった。
しばらく舟を漕いでいた船頭さんだったが、今は少し手を休めている。
川である以上、上から下へと流れていくのが普通だが、あっちを見てもこっちを見ても高低差はさほどなく、湖面ほど穏やかではない流れが舟を揺らした。
川面にあの灰色の空を映し込むこともないし覗き込んでみたわたしの顔も影も一切映らない。異様なほど澄んでいるのに水底まで光が届いている様子もなく、そもそも太陽すら存在していない空の様子を鑑みれば作り物めいているにもほどがある。
川とか空とか人間といったオブジェクトが律儀に設置され、一方で入れ忘れたのか自然に必要な何かの欠如というか不足というか、とにかくありうべき物理法則に素直に従っていないこの情景こそ、ここが現実ではありえないことの証左とも言える。
川は流れるもので水は透き通るもの。根底にあるべき、どうしての部分が抜け落ちているために結果だけが不自然に用意されている感触だ。
同乗者たちは気にした様子もなく自分たちの生前の話に興じている。これはわたしだけが抱いている感想かもしれない。彼らの目にはこの景色に不自然なところなど無いのかも知れない。妙に腑に落ちた。
「なんだか面倒な話をしてるね」
船頭さんが腰を下ろしてしまった。舵を取らずとも、舟は勝手に動いている。さっきまで舟を漕いでいたのは何だったのか。
船頭さんは悪戯っぽく微笑んだ。
「上手く手を抜くのが仕事を長く続ける秘訣なんだって」
「サボりか」
「効率よく働くためには、よく休み、よく遊ぶのが大事なのよ。あたしの胸は落ち着いたでしょ。セクハラで訴えられてもおかしくないわ。そう考えたら安井さん、あたしに言うことがあるわよね」
「……堪能させてもらった。ありがとう」
「サービスよ、サービス。一線超えたら舟から突き落とすけど」
安井さんは曰く言い難い表情を浮かべ、長瀬さんが笑い声を上げた。死んだにもかかわらず遠藤さんと長瀬さんはずっと陽気だ。
「身の上話してたんでしょ。どこまで話したの」
「皆さんが、どんな風に亡くなったかを聞いたところです。今度は私の番だったわ」
余裕ある笑みを浮かべ、遠藤さんがわたしたちをぐるりと見回した。聞いていなかったわたしのために長瀬さんが説明してくれた。
「おっさんは交通事故だってさ。おれは火事かな」
「だから財布を持ったままだったと。それなら火葬みたいなものね」
「アクセサリーはそのままだし、寝てるうちに死んじゃったみたいだから何が起きたんだかよく分かってないんだよね。死後の世界ってもっと楽しいもんだと思ってたなあ。思ったより普通」
船頭さんと長瀬さんは愉快そうに話した。これから自慢げに自分の末期を語ろうとしていた遠藤さんは表情を凍らせ、おっさん呼ばわりされた安井さんは苦虫をかみつぶしたような顔を隠さなかった。
「私はね、子供が三人、孫が六人いるの」
「すごい。大家族だ」
「若い頃は苦労したけれど、子供をもうけてからこの年になるまで幸せだったわ。夫は早いうちに亡くなったけれど、太郎は小さいながらも会社の社長になったし、平太ちゃんは学者さんになってテレビのコメンテーターのお仕事。私に一番そっくりな美奈子は平凡な相手と結婚したけど、そのおかげで寝たきりになった私を引き取ってくれたの」
介護老人だ。わたしは遠藤さんの様子から、寝たきりの老女を想像しようと試みたが難しかった。矍鑠としていて、言葉もはっきりしている。痴呆の雰囲気も感じられない。
腰も曲がっておらず、話し方や素振りから見ていても一人暮しでも十分やっていけるほどしっかりとしている。
「私ね、本当は寝たきりのおばあちゃんなんですよ。よぼよぼで、しわしわで、言葉ひとつ発するにもぜいぜい言いながら必死になってしゃべらないと誰にも通じない。食べるものだって赤ん坊が食べるみたいな、どろどろじゃないと飲み込めもしない。でもね、そんな私でも、子供達は嫌な顔ひとつせずに世話をしてくれたの」
嬉しそうに目を細めた。
「シモの世話まで嫌がらずにかあ」
「おい、空気を読めよ」
「普通はイヤじゃん。すごいよね」
安井さんは咎めた。遠藤さんは我が意を得たりと言わんばかりに何度も頷いて、船頭さんよりずいぶんと控えめな胸を張った。
わたしだけが気づいた。船頭さんは川の流れに浮かぶ舟のような微笑だった。
彼岸はまだ見えない。どれだけ広い川なのだろう。
確かに此岸は遠ざかっている。
船着き場があった側の川縁には数本の桃の木が見えた。そのすべてに手のひらサイズの桃が生っていて、どれもが瑞々しく光っている。近くには人影がいくつか。
子供だろうか。
伸びた枝に手を伸ばし果実を掴もうとしている。指先が触れ、もぎとろうと力を込めた瞬間、舟が激しく揺れてわたしはその結果を見届けることが出来なかった。
人影は逃げ去ったのかすでに見当たらず桃の実はひとつも減っていない。彼らは脅えていた。何かに追われているのか、桃の木に近づくことが許されていないのか。
決定的な瞬間を見逃した。そのせいで経緯も結末も理解することは出来ず、ただ何かを成そうとした中途の場面だけが残像として脳裏に焼き付き、靄がかって胸の中に留まっている。
灰色の桃なんて美味しく見えるはずがないのに。もしかしたらあの桃はセピアやモノクロではなく真実、桃色だったのだろうか。
はっとして桃の木を再度見ようとしたが、すでに果実どころか木の形すら定かではないほどに遠ざかっていた。
「いやあ、残念だったね。でもまあ、娘さんはこれから幸せだと思うわ」
船頭さんは声を低くしていた。遠藤さんの顔は真っ白だった。もともと白く見ているのだが、色が乗っていれば蒼白と表現するのが一番ぴったりだろう。
誰にも優しさを振りまくような、あの薫り高き気品は見る影もなく、弱々しく泣き崩れる老婆がそこにいた。微妙に位置が変わっている。先ほどの揺れは立ち上がったか詰め寄ったかして、その場を動いたせいらしい。
「お孫さんも優しくて良かったじゃない」
「そんな。そんなこと」
「ごめんね。ちょっと意地悪だったかしら。安心して。娘さんは別に佐和子ちゃんのことを憎んでたわけじゃないわ。疲れちゃったの。あるでしょ。どんなに素敵なひとでも本を読んでいる最中に話しかけられたら邪魔だなって思うことくらい。だからね、もしあたしの言葉が本当だったとしても許してあげて欲しいわ。その広い心で」
悪意をたっぷり詰め込んだ言葉が遠藤さんの耳に流し込まれていた。
安井さんは船頭さんを睨め付けているし、長瀬さんは大変だったんだねーと労りの言葉を容赦なくぶつけている。
なんだ、これ。
視線を彷徨わせ、途方もなく冷たい汗が背筋を伝うのを感じた。背中に舟の固い木の板が当たる感触。ぎしりと嫌な音が鳴って、舟が突然早くなった流れに沿って傾いた。
船頭さんは舵を切らず、櫂を手に取ることもなく、流れのままに任せていた。
安井さんがすぐさま櫂を握りしめ、舟の動きを制御しようと懸命に努力した。
無意味だ。船頭さんの笑みは深く、流れは激しさを増すばかり。
死人が二度死ぬことはないだろうけれど、舟が転覆して川に投げ出されたらどうなるのだろう。その答えは当然と言うべきか、誰からももたらされなかった。




