あるいは綾子嬢に捧ぐ最後の花束(3)
3、
なんだろうこの情景は。意味は分かる。安井さんには辛いことがあって、それが溢れて止まらなくなってしまった。せき止めていた何かを彼女が崩してしまったのだ。
いつになったら出発するのだろう。この舟は。
冷めた気持ちがぐんぐんと強くなり、たとえば芸術作品を前にしたときに見いだす一方的で狭い世界、内向きの空間へと全霊で入り込んでいけないのは自分にそれを感じる器官や才能、記憶や経験が存在しないからで、しかし他者は理解しているときの、この圧倒的な疎外感、この上ない不愉快さが、背骨や下腹部、つま先あたりからじわりと冷たく沸き上がってくる。
中だけで完結しているなら他人に見せつけなければいい。
自分に分かるのは彼女の大きな胸がどんな悩みも受け止めてくれるくらいにやわらかくて優しくて、それを乱暴にもみしだくことができたのならどんなに幸せなことだろうと想起してしまう部分だけだ。なんとも卑近で直情的だと呆れるばかりだ。あるいは生前の自分の嗜好もこうだったのか。初めて女性の裸体を見た中学生の男子みたいだ。勢い任せに行為に走ったところで一人果てるだけで面白い結果にはならない。
「はいはい、サービスは終わりよ。お触り厳禁ね」
彼女はしばらく安井さんを泣かせてやっていたが、手の動きだか鼻息だかがいやらしくなったあたりで見限った。頭の上から拳で小突いて正気を取り戻させた。
安井さんは散々泣いて落ち着いたのか、鼻をすすりながら彼女から身を離した。
どうせたいした悩みではなかったのだ。もとより他人の苦悩なんてその程度だ。表面上にあるものはただ通り過ぎてゆくのみで、一切は後付けでしかない。他者の懊悩する様を見て喜ぶ趣味は自分にはない。そのはずだ。
「良かったですねえ」
おばあさんが一声かけた。安井さんは俯いた。恥ずかしがっていた。
おばあさんからは責める言葉は出てこなかった。達観しているのか無関心なのか外からは判然としない。すでに生き死にを超越した状況にあっては、どうでも良いことだろうけれど。
皆、自分の死を受け入れている。それは不思議で、薄気味悪いことだった。自分はここにいてそのまま続いているにもかかわらず、すでに死んでいる。
ラベルが失われたこの身ですら恐慌に陥っていないのだから、彼らが強く心を持っているのは当然なのかもしれない。落着を余所目に青年が彼女に尋ねた。
「ところでおねーさんさ。死神ってやつなの」
「厳密には違うけど。ただの渡し守だからね。未練があるとか言われてもあたしには何にも出来ないからそのつもりでいてね」
「そういうことを聞きたいんじゃなくて、もしかしておれとかこっちのお姉さんのことかも知ってるのかなって」
「ある程度は分かってないと、いざというとき困るでしょ」
「じゃあ自己紹介っているの」
「いるわよ。自己紹介は円滑な人間関係の第一歩」
「おねーさんは人間じゃないでしょ。なに、スカウトでもされたの」
「どうだったかしら。昔は人間だったかもしれない」
「ずるいなあ。言い出しっぺなんだし、おねーさんもちゃんと自己紹介しなきゃ。おれは長瀬正義。せいぎ、って書いてまさよしって読むんだ。いい名前でしょ。仕事はカテキョのバイトしてた。あ、家庭教師の略ね。小学生とか中学生相手に教えてたんだ」
「あら、ひとは見た目によらずと言いますか」
「お姉さんヒドイなぁ。これでもいい大学出てるんだよー」
「それは失礼。私は遠藤佐和子と言います。享年八十歳、と言うべきなのかしら」
「うっそ。見えないって」
「お世辞もほどほどになさいな」
二人が盛り上がっているところに死神さんが割り込んだ。
「正義くんには本当に若く見えてるんじゃないかしら。それと死神って呼ばれるとイメージが悪いから、あたしは渡し守とか船頭で呼んでくれるとありがたいわね」
「俺は」
「さっき聞いたよ。安井さん」
四人のやりとりを前にして声は出なかった。船頭さんは酷なことを言う。こっちは自分が誰なのか分からないのに。
「そうねえ。とりあえず、わたし、と口に出してみて」
わたし。
なんとなく、しっくり来た。
わたし。
自分を指す言葉。どこにでもいる一人称。でも、わたしはいったい誰だろう。何者だったのか。その答えを船頭さんは簡単に教えてくれる気はなさそうだ。
安井さんに対してと同じくらい、わたしのことも把握しているのなら、それはとても素敵だと思う。そこにはわたしのこれまでが確かに存在しているはずだった。
「アイデンティティーの喪失ってやつかあ。まれによくあるよね」
長瀬さんが興味ありげに話しかけてきた一方で遠藤さんが首をかしげた。
「お姉さんには無いの。自分はどこから来て、どこへ行くのかとか。何のために生まれて何のために死ぬのかとか。一時期さ、自分探しの旅とか流行ってたじゃん」
「だとしても、自分なんて、どこかに落ちているものではないでしょうに」
「結構そこら中に落ちてるもんだって。自分ってあちこちに散らばってるでしょ。友達ののなかとか、ケータイとか、年金の支払い記録とかにさ。そこらへんになかったら、どっか遠くに探しに行くわけ。で、たまに実際見つかっちゃうんだ」
「そういうものなのかしら」
「で、これまでの人生は蝉の脱け殻扱い」
「小難しい話をしてるとこ悪いわね。そろそろ出発するから」
船頭さんがついに舟を漕ぎ出した。わたしたちは彼女を見上げた。あのパーカーは撥水加工でもしてあるのだろうか。そんなことが気になった。
二人は嫌な顔を見せなかった。わたしと安井さんは顔を見合わせ、この切りの悪さに対する落ち着かない気分を共有していた。むなしく漂っていた舟は、とにもかくにも動き出してしまった。漕ぎ方も想像していたよりずっと緩やかだった。
舟はかすかに揺れながら川を進み始めた。わたしが世界を眺めているように彼らにも違うものが見えている。彼らの目にはどんな風に映っているのだろう。




