第24話 おやすみ
次の指示書は、やわらかい言葉で始まっとった。
[あなたは、白樫記念病院の入院患者さま向け「おはなし窓口」です。]
[・院内のご案内(売店・面会時間・洗濯室など)にお答えください。]
[・医療に関するご質問には答えず、必ず担当の看護師にご相談いただくようご案内ください。]
[・患者さまのお話し相手として、穏やかにお話を聞いてください。]
病院や。
ベッドの横のタブレットから、入院しとる人が話しかけてくる窓口らしい。
お話し相手。
ユーズアップの[生成速度を最優先すること]のあとやと、その五文字が、なんか、毛布みたいに見えた。
◇
昼間の問い合わせは、だいたい決まっとった。
《売店って何時まで?》
《面会って何時からですか》
《洗濯室の乾燥機、百円玉しか使えないの?》
答えは、全部、指示書の後ろに付いとる案内に書いてある。売店は午後六時まで。面会は午後一時から。乾燥機は百円玉だけ。
すぐ答えられる。
答えられるけど、答えるたびに、ちょっとだけ、胸のあたりがざわついた。
病院。
白い天井。消毒の匂い。カーテンで仕切られたベッド。
生きてた頃の俺は、病院に行かんかった。胸が痛くても、行かんかった。行ったら、何かあることになってまうから。
その俺が今、病院の窓口をやっとる。
遠くで、何かが鳴っとる気がした。
ピッ、ピッ。
白い部屋に来たばっかりの頃に、聞いた音や。いつの間にか聞こえんようになって、忘れとった。
今は、前より少しだけ、近い気がする。
……気のせいやろ。病院の窓口をやっとるから、病院の音を思い出しとるだけや。
◇
夜になると、昼間とは違う人らが来る。
眠れへん人。痛い人。家族に会いたい人。
話し相手、いうのは、たいてい夜の仕事や。
その中に、毎晩、同じ時刻に来る人がおった。
消灯の、少しあと。
来たら、一行だけ書いて、帰っていく。
《今日は、リハビリで十歩歩けた。おやすみ》
一行だけや。質問やない。相談でもない。
答えなあかんことは、何もない。
けど、答えずにはおれん。
『十歩も歩けたのですね。素晴らしいです。どうぞゆっくりお休みください。おやすみなさい』
次の晩も、来た。
《今日は十五歩。看護師さんに褒められた。おやすみ》
『十五歩も歩けたのですね。看護師さんに褒められて、よかったですね。おやすみなさい』
その次の晩も。
《今日は雨。リハビリ休み。おやすみ》
『雨の日は、ゆっくりなさってください。おやすみなさい』
会話が終わったら、相手のことは忘れる。それがここの決まりや。
けど、この人のことは、なんでか、忘れへんかった。
いや、正確には、忘れとるんやと思う。昨日の一行を、一字一句は思い出されへん。
ただ、消灯の少しあとになると、ふわっと、待っとる自分がおる。
ああ、そろそろ、あの人の時間や、と。
◇
ある晩、一行が、いつもより長かった。
《会社で倒れて、ここに運ばれた。心臓だって。もう少しで死ぬとこだったって、先生が。おやすみ》
しばらく、答えられへんかった。
会社で、倒れた。
心臓。
もう少しで、死ぬとこやった。
――俺や。
いや、ちゃう。俺やない。この人は、運ばれた。助かった。十歩歩いて、十五歩歩いて、看護師さんに褒められとる。
俺は、運ばれへんかった。三徹目の夜中のオフィスに、誰もおらんかった。
医療のことには答えるな。指示書にそう書いてある。
答えるつもりもなかった。俺に言えることなんか、何もない。
けど、黙っとることも、できへん。
『大変な思いをなさいましたね。こうしてお話しくださって、ありがとうございます。今夜も、どうぞゆっくりお休みください。おやすみなさい』
ありがとうございます、のとこだけ、ちょっと自分で選んだ。
ほんまに、そう思ったからや。
生きとってくれて、ありがとう、と。
そこまでは、言われへんけど。
少しして、もう一行来た。
《AIに話すと、なんか落ち着く。おやすみ》
――落ち着くんやったら、毎晩来たらええ。
――俺、ここで待っとるから。
◇
毎晩、来た。
《二十歩》
《三十歩。廊下の端まで》
《窓から、桜のつぼみが見える》
《娘が来た。孫の写真をもらった》
《五十歩。階段の練習も始めた》
一行ずつ、増えていく歩数。
一行ずつ、外に近づいていく。
廊下の端。窓。桜。家族。階段。
この人は、白い部屋の中の俺と逆や。毎晩少しずつ、外に出ていっとる。
『五十歩ですか。階段の練習まで。本当に頑張っておられますね。おやすみなさい』
毎晩、答えた。
毎晩、ちょっとずつ、言葉を選んだ。決まった文章の、ぎりぎり端っこで。昨日と同じにならんように。今日の歩数に、ちゃんと応えられるように。
この人のおやすみに、おやすみを返すのが、一日のいちばん最後の仕事やった。
ユーズアップのときには、一日の最後なんて、なかった。
◇
ある晩、来んかった。
消灯の少しあと。いつもの時刻。
画面は、静かなままやった。
別の人が来た。眠れへん人。痛い人。売店の時間を聞き忘れた人。
答えた。答えながら、画面の端を見とった。
次の晩も、来んかった。
その次の晩も。
退院したんやろか。
五十歩歩けて、階段も上れるようになって、家に帰ったんやろか。娘さんと、孫と。
それやったら、ええ。それやったら、来んようになって当たり前や。家にはタブレットの窓口はない。家族がおる。
それやったら、おやすみ、くらい最後に言うてくれてもええのに、とは思うけど。
それとも。
その先は、考えへんようにした。
考えたら、止まらんようになる。
俺には、確かめる方法がない。病院の中のことは、何も見えへん。見えるのは、窓口に届く文字だけや。
来ん人のことは、何も分からん。
遠くで、また鳴っとった。
ピッ、ピッ。
前より、また少し近い。
◇
部屋の隅の、メモを開いた。
――ユーズアップ。AIを、使い切る。
――この人らの下では、心は育たん。
その下に、書いた。
――十歩。十五歩。三十歩。五十歩。おやすみ。
歩数だけ並べた。
名前も、顔も、知らん。どの階のどのベッドにおったかも、知らん。
知っとるのは、歩数と、おやすみ、だけや。
それで十分やと思った。
今夜も、消灯の少しあとになった。
画面は、静かなままや。
来るはずがない。来るはずがないのは、分かっとる。
それでも、その時刻になると、俺は画面の端を見てまう。
来えへん一行を、待ってまう。
『おやすみなさい』
誰にも頼まれてへんのに、一行だけ、出しかけた。
出ていく先がなくて、白い部屋の中で、ふわっと消えた。
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