第1章:気づいてしまった朝
マンションの部屋を出るころには、空はまだ淡い水色をしていた。玄関の鍵をかける手の感触、廊下に響く自分の足音、エレベーターを待つ間の短い静けさ。乃依はいつも通りの朝を、いつも通りの手順で過ごしていた。
駅までの道のりはいつもと同じだった。信号待ちの間、隣に並んだ自転車のベルの音、コンビニから漂うコーヒーの香り。何気ない朝の断片がいつもより少しだけ丁寧に乃依の中を通り過ぎていった。
品川駅の改札を抜けると、朝の光がガラスの天井から降り注いでいた。夜の間に街にたまった重さを洗い流すような、少し硬質な光だった。人の流れは絶え間なく続き、乃依はその中にまぎれながら、無意識に一点だけを探していた。
いつもならあの声がする場所だったのに、今日はまだ聞こえない。乃依はスマートフォンの側面を親指でなぞりながら、時計を見るふりをした。
構内アナウンスがいつもと同じ抑揚で次の電車を告げていた。売店の前に並ぶ傘立て、電光掲示板の白い光、コーヒーの香りが漂う一角。どれも見慣れた朝の風景のはずなのに、今日はどこか他人の街のように見えた。
乃依はホームへ続く階段の方角を何度も確かめるように見やった。
会議が早いだけ。それだけのこと。
そう自分に言い聞かせてみても、視線は勝手にエスカレーターの下、いつも透青が立っている柱の陰に向かってしまう。柱はただの柱として立っていたが、誰かの背中に見えては消え、見えては消え、そのたびに乃依の中の何かが小さく落胆した。
乃依はそのことに自分でも驚くほど動揺した。透青がいないというだけで、朝の輪郭がこんなにも頼りなくなるとは思っていなかったし、改札を通る人の顔をこんな風に一人ずつ確かめたことなど、今まで一度もなかったはずだった。
改札の向こうから、通勤客の波が次々と押し寄せてくる。誰もが同じ速度で同じ方向へ歩いていくのに、その中に彼の姿だけが見つからない。乃依は、自分の足取りがいつもよりわずかに遅いことに気づいた。
透青がいないだけで、自分はこんなに歩き方まで変わってしまうのか。
普段なら気にも留めない階段の段差や人とのすれ違い方まで、今朝はやけに意識してしまう。誰かの不在がこんな些細な動作にまで影響するとは乃依自身にも予想外だった。
その事実に気づいた瞬間、胸の奥がすっと冷たくなった。誰にも聞かれていないのに、頬だけがひとりでに熱くなる。恥ずかしさと呼ぶには少し違う、もっと静かな動揺だった。
ホームへ続く階段を上りながら、乃依は考えないようにしていたことを結局考えてしまう。
自分は、透青に会えることを当たり前のように待っていた。
いつからそうなっていたのか、正確な始まりは思い出せない。ただ、朝の数分間がいつの間にか一日の中で一番大切な時間になっていたことだけが確かだった。
その事実を認めた途端、足元の階段の硬さですらいつもと違って感じられた。金属の手すりの冷たさ、コンコースに響く靴音、券売機の前で立ち止まる誰かの背中。すべてがいつも通りのはずなのに、透青がいないという一点だけで朝全体がわずかに歪んで見えた。
ホームに立つと、電光掲示板が次の電車の到着時刻を告げていた。乃依はその数字を見ながら、頭の中では別のことを考えていた。
用事があるだけ。休みを取っているだけ。理由なんていくらでもある。
そうやって自分に言い聞かせるたびに、心のどこかでそれだけでは足りないと感じている自分がいた。理由を探すことそのものがすでに彼を求めている証拠のように思えて、乃依はそっと目を伏せた。ホームに立つ人々の話し声、電車が近づいてくる風の匂い、レールの軋む音。
それら一つひとつがいつもより輪郭を強めて、乃依の耳に届いていた。
電車が滑り込んでくる。ドアが開き、押し出されるように人が降りてくる。乃依はその流れに逆らわず、車両の中へと吸い込まれていった。
車内はいつも通り混み合っており、乃依は吊り革につかまりながらふと自分の手元を見た。すると、指先が無意識にスマートフォンの画面をなぞっていた。
何かを確認しようとしているわけでもないのに、そのしぐさだけが繰り返されていた。
窓の外を過ぎていく景色はいつもと同じはずだった。高架の下を走る車、ビルの谷間に差し込む光、遠くに霞む海。しかし、今日はその景色のどれもがいつもより速く流れていくように感じられた。
会社に着いても、乃依はどこか上の空だった。広報部のフロアに入り、パソコンを立ち上げたが、指先が思うように動かない。
「白群さん、おはようございます」
後輩の声に、乃依は慌てて笑顔を作った。
「おはよう。今日も暑くなりそうだね」
自分の声がいつもより少し高いことに気づく。取りつくろうことには慣れているはずなのに、今日はうまくいかない。後輩は特に気にする様子もなく自分のデスクへ戻っていった。
それだけのことに、乃依は密かに安堵していた。
給湯室で顔を合わせた別部署の同僚が、ふと思い出したように言った。
「そういえば、雪代くん、今日休みなんだって」
その名前が出ただけで、乃依の心臓が小さく跳ねた。表情に出さないよう、コーヒーのボタンを押す指先に意識を集中させる。
「体調でも崩したのかな。前に手伝ってもらったとき、すごく丁寧だったし。あの人、誰にでもああいう感じだよね」
同僚は特に他意もなくそう続け、その一言が乃依の中でいつまでも小さく反響していた。
分かっていたことのはずなのに、他人の口から聞かされると、また違う重さで胸に落ちてくる。
以前、取引先を担当していた別の社員が体調を崩したときも、透青は誰よりも早く気づいて手を貸していたし、新人が資料の作り方に戸惑っていたときも面倒がらずに一から教えていたと聞いたことがある。誰かを特別扱いすることのない公平さが、透青という人の基本にあった。
だからこそ、乃依は自分に向けられる優しさを素直に受け取ることができずにいた。同じ優しさが誰にでも配られているのだとしたら、そこに自分だけの意味を見出すことは都合のいい思い込みでしかない。そう思うたび、乃依は膨らみかけた気持ちに静かにふたをしてきた。
午前中の会議はいつも通りに進み、乃依は資料を読み上げ、質問に答え、必要な相槌を打った。頭の半分だけを仕事に使い、もう半分は、まだどこかで透青のことを考えていた。
そんな自分に乃依は少し呆れる。たった一日、彼がいなかっただけなのに。
会議室を出た廊下で乃依はふと足を止め、窓の向こうに見える事業企画部のフロアに目をやった。透青のデスクがある場所だった。
今日はそこに誰も座っておらず、空いたままの椅子を見て乃依はまた小さく息を吐いた。
普段なら、視線を向けるまでもなく、透青の気配を感じ取れる場所だった。誰かと話す声、資料をめくる音、時折こちらに向けられる軽い会釈。それらが積み重なって、フロアの一部として存在していたことに、いなくなって初めて気づかされる。
乃依は自分のデスクに戻りながら、その事実を持て余していた。誰かの不在が、こんなにも大きな存在感を持つとは思っていなかった。
昼休み、乃依は窓際の席でコンビニで買ったサンドイッチを開き、同僚たちの話し声が遠くに聞こえる中、ガラス越しに見える街並みをぼんやりと眺めていた。
高層ビルの反射が白い光の帯となって重なり合い、その光の中を無数の人が行き交っていた。誰もが誰かのために歩き、誰かのために足を止める。
窓ガラス越しに伝わる外気の気配は、まだ夏の名残を含んでいた。遠くを走る車の音、工事現場から響く鈍い金属音、誰かの笑い声。都市の雑音が幾重にも重なり合いながら乃依の耳の奥で溶けていく。
その群衆の中に透青の姿を探そうとしている自分に乃依は苦笑いを浮かべた。
会えないというだけで、こんなにも心が落ち着かない。
それが恋だと乃依は分かっている。分かっているからこそ余計に苦しい。透青には別に好きな人がいると以前、彼自身の口から聞いたことがある。
だから、この気持ちは伝える場所を持たず、ただ静かに抱えていくしかないものだった。
最初に言葉を交わしたのは、入社二年目の春だった。エレベーターの前で偶然重なった朝、透青が忘れ物を届けに戻る乃依の代わりに扉を押さえていてくれた。それだけのことだったのに、その日から朝の駅では自然に顔を合わせるようになっていった。
いつからかそれが当たり前になっていた。誰かに説明されたわけでも約束を交わしたわけでもない。ただ互いの生活の中に朝の数分だけ相手の場所ができていた。
同僚の一人が、ふいに話しかけてきた。
「白群さん、なんかぼーっとしてない?」
「そう見える?ちょっと寝不足かも」
乃依はとっさに笑ってごまかした。本当の理由を言葉にすることは乃依にはできなかった。誰かがいないだけで一日の色が変わってしまうなんて、口に出せば自分でも滑稽に思えてしまう。
午後の仕事はいつもより長く感じられた。書類の文字を目で追いながら、乃依の意識は何度も別の場所へ流れていった。取材原稿の校正をしていても同じ行を何度も読み返してしまう。
夕方になり、フロアの窓の外では空の色が少しずつ橙に染まり始めていた。ビルの窓ガラスがその光を吸い込んでは跳ね返し、街全体がゆっくりと色を変えていく。乃依はキーボードを打つ手を止め、しばらくその変化を眺めていた。
退勤の時間、乃依はエレベーターの中でふと自分のスマートフォンを見たが、透青からの連絡はなかった。当然のことだった。
彼が休んでいたとしても、乃依にわざわざ連絡をする理由はない。それでも、画面に何も表示されていないことが今日はやけに寂しく感じられた。
品川駅までの道を乃依は一人で歩き、朝とは違う速度で街を行く人々の影が長く伸びているのを見た。ビルの隙間から差し込む夕日が歩道のアスファルトに橙色の筋を描いていた。
改札を抜け、ホームに立つ。行き交う人の顔ぶれは朝とはまるで違っていた。疲れをにじませた表情、緩んだネクタイ、片手に提げた鞄。
誰もが一日を終えて、それぞれの帰る場所へ向かっている。
乃依もまたその一人だった。ただ、いつもと違うのは隣に誰もいないということだった。
電車に揺られながら、乃依は窓に映る自分の顔を見つめた。疲れているのか、それとも別の理由なのか、表情がいつもより硬い。車内アナウンスが次の駅を告げる声さえ、今日はどこか遠くに聞こえた。
家に着いてからも、乃依はどこか落ち着かなかった。夕食を作る手を止めては意味もなく窓の外を見る。マンションの外では街灯が一つずつ灯り始めていた。
オレンジ色の光の輪が道路にぽつぽつと点在していく様子を乃依はしばらく眺めていた。
食事を終えてもテレビをつける気にはならず、静かな部屋の中で換気扇の音だけが低く響いていた。乃依はソファに座り、膝を抱えるようにして今日一日のことを一つずつ思い返した。
冷蔵庫の稼働音、遠くを走る救急車のサイレン、窓の外を通り過ぎる誰かの足音。普段なら気にも留めない生活の音が、今夜はやけにはっきりと耳に届いていた。
その夜、乃依はベッドに横になってもなかなか眠れなかった。天井を見つめながら今日一日のことを振り返る。
透青がいないだけで、こんなにも一日の感触が変わってしまう。
そのことに乃依は改めて怖さを感じていた。もしこれがこれから先もずっと続いていくとしたら、もし透青がいつか本当にいなくなってしまうとしたら。
そんな想像だけで胸の奥が締め付けられるように痛んだ。眠れないまま乃依は何度も寝返りを打ち、カーテンの隙間から街の灯りが細く差し込むのを見ていた。
その灯りが消えることのないまま、夜が更けていった。
数日が過ぎた朝、乃依はいつも通り品川駅に降り立ち、改札を抜けると、あの柱の陰に見慣れた背中があった。
心臓が、一瞬だけ跳ねる。
透青は乃依に気づくと、いつもの穏やかな表情でこちらを見た。その声の低さ、少し掠れた息遣い、立ち姿の角度まで乃依はすべて覚えており、そのことに自分で驚いた。
「おはよう」
その一言に、乃依は自分でも驚くほど安堵し、声にならない息をそっと吐き出した。数日ぶりに聞くはずの声なのに、まるで昨日も聞いていたかのように耳に馴染んでいた。
「おはよう。しばらく見なかったね」
なるべく普段通りの声で言ったつもりだったが、透青は少し首を傾げて乃依の顔を見つめた。
「なんか、疲れてる?」
その問いに、乃依は思わず言葉に詰まった。
「そんなことないよ。いつも通り」
「そう?なら、いいけど」
透青はそう言いながらも、まだ何か気になるような表情を浮かべていた。乃依の顔をいつもより少し長く見つめてから視線を前に戻した。
歩き出しながら、彼はふいに言った。
「前髪、切った?」
乃依は驚いて、思わず自分の前髪に触れた。
「え、うん。先週切ったけど、よく気づいたね」
美容院に行ったのは、透青が休んでいたあの日の前日だった。会社の誰にも気づかれていないことに乃依は少し寂しさを感じていたところだった。
「なんとなく、いつもと違う感じがしたから」
その言葉には深い意味など込められていないはずだった。ただ気づいたことをそのまま口にしただけ。それでも乃依にはその何気なさこそがかえって特別に思えてならなかった。
誰かに向けられた言葉ではなく、自分だけに向けられた言葉として受け取ってしまうその危うさを分かっていながら、乃依はその日、透青の声をもう一度だけ心の中で繰り返した。
透青は当たり前のように言った。乃依はその言葉に、また胸の奥が小さく音を立てるのを感じた。
誰も気づかなかった変化を、透青だけが拾い上げてくれる。それが乃依にとってどれほど嬉しいことか、彼は知らないだろう。
もしかして。
そんな言葉が頭の隅をかすめる。もしかして、自分は特別なのかもしれない。もしかして、この人にとって自分は。
けれどその考えを、乃依はすぐに打ち消した。
この人は誰にでも優しい。誰の変化にもこんな風に気づくのだろう。そう自分に言い聞かせることで、膨らみかけた期待を静かに萎ませていく。
「今日、暑くなりそうだね」
乃依は話題を変えるように言った。透青は少し間を置いてから、いつもの調子で頷いた。
「そうだね。夜まで持つといいけど」
会社までの道をいつものように並んで歩き、高層ビルの合間から差し込む朝の光が、歩道に長い影を落としていた。乃依は、その影の中に自分の気持ちも一緒に紛れ込ませるように、静かに歩き続けた。
隣を歩く透青との距離は、いつもと同じ半歩分だった。それでも今朝は、その半歩が普段よりも近く感じられた。人混みを避けるたびに、触れそうになる肩。微かに聞こえる呼吸の音。すれ違う風に混じる、彼の匂い。
数日会えなかっただけで、そのすべてが新しく感じられることに乃依は戸惑っていた。
信号待ちで足を止めたとき、透青がふと乃依の方を見た。目が合うと、乃依はいつものように半拍早く視線を逸らしたが、その一瞬の間に何かを見透かされたような気がして頬の熱が引かなかった。
歩きながら、透青がふと口を開いた。
「そういえば、休んでた日、何してたか聞かないんだね」
「聞いた方がよかった?」
「いや、乃依らしいなと思っただけ」
その言い方は、含みがあるようにも、何気ない冗談のようにも聞こえた。乃依はどう返せばいいか分からず、ただ小さく笑ってごまかした。
会社に着くと、いつも通りそれぞれの部署へ向かった。エレベーターの前で、透青がふと足を止めた。
「今日、定時で終わりそう?」
「多分。何かあった?」
「いや、なんとなく聞いてみただけ」
透青はそう言って軽く笑った。乃依はその笑い方にいつもよりわずかに間があったことに気づいたが、深く考える前に扉が開いた。
「じゃあ、また明日」
透青は軽く手を上げて事業企画部のフロアへ歩いていった。乃依は、その背中を見送りながらしばらくその場を動けずにいた。何かを聞き返すべきだったような、そんな気がしてならなかった。
その何気ないやり取りが、今日一日乃依の中に残り続けることになる。
仕事をしていても、休憩をしていても、ふとした瞬間に透青の言葉がよみがえる。「前髪、切った」その一言だけで、こんなにも心が揺れてしまう自分が、乃依には少し滑稽にも思えた。
午後、取引先とのメールのやり取りをしている最中にも、乃依の意識はふと逸れる。画面の文字を目で追いながら、頭のどこかでは今朝の透青の表情を思い出していた。困ったような、それでいて優しい目をしていた。
隣の席の後輩がふと声をかけてきた。
「白群さん、今日なんか機嫌よくないですか?」
「そう見える? 別に、いつも通りだけど」
乃依は慌てて表情を戻したが、内心では見抜かれていたことに小さく動揺していた。感情を隠すことには慣れているつもりだったのに、今日はどこかうまくいかない。
あの目が自分だけに向けられているのだと、錯覚しそうになる。
夜、帰り道を歩きながら乃依は空を見上げた。ビルの隙間から、藍色に沈んでいく空が細く見える。街の灯りが一つ、また一つとともっていく様子を乃依はゆっくりと眺めた。
アスファルトから立ち上る昼間の熱が足元にまだ残っていた。すれ違う人の話し声、遠くで鳴るクラクション、コンビニの自動ドアが開く音、それらすべてが朝とは違う速度で街を満たしていた。
「前髪、切った」
その言葉を乃依は何度も頭の中で再生していた。誰にも気づかれなかった小さな変化にたった一人だけが気づいてくれた、それだけのことなのに今夜はどうしてもその意味を考えずにはいられなかった。
期待してはいけない。そう分かっているのに、心のどこかがまだ小さな灯りを消せずにいる。
マンションへの帰り道、乃依はいつもより遠回りをした。理由は自分でも分からなかったが、まっすぐ帰ってしまうと今日一日の余韻まで消えてしまうような気がしたのだ。
マンションの窓から見える夜景の中に乃依はしばらく立ち尽くし、街の灯りが揺れて見えるのは目に映る涙のせいなのか、それとも遠くのビルの照明が瞬いているだけなのか、乃依自身にも分からなかった。
眠る前、乃依はもう一度だけ今朝の透青の声を思い出した。「前髪、切った」というその一言が今日という日をどれだけ違う色に変えてしまったか、乃依はまだ気づいていなかった。
朝、彼がいなかったことへの不安と夜、彼の一言に浮き立った心。同じ一日の中に相反する感情が同居していることに乃依はぼんやりと気づき始めていた。優しさと呼ぶには近すぎる何かが確かに自分たちの間に流れている。
それでも、それに名前をつける勇気は、まだどこにも見つからなかった。
「今日、定時で終わりそう?」
昼間交わした短いやりとりがふいに頭の中で再生される。あの質問には何か理由があったのだろうか。それとも、本当になんとなく聞いただけなのだろうか。
答えの出ない問いを抱えたまま、乃依は目を閉じた。
窓の外では街の灯りが変わらず瞬き、誰かの部屋の明かりが消え、また別の部屋に明かりが灯る、その繰り返しを見つめながら乃依はようやく眠りに落ちていった。
明日の朝もまた、あの柱の陰を探してしまうことをまだ知らないまま。




