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遺伝子の小さな箱庭  作者: 妙義豊
89/95

不帰の樹海㉑

朝。


誰も昨夜の話を口にしなかった。


だが。


忘れた者もいなかった。


同じ樹。


同じ傷。


あれは見間違いではない。


全員が見た。


全員が知っている。


それでも。


進むしかなかった。


出発する。


先頭はエリスだった。


誰も異論はない。


今、この森で最も頼れるのは彼女の耳だった。


歩く。


樹海は変わらない。


樹。


霧。


湿った空気。


どこまでも続く景色。


昼頃。


再び立ち止まる。


今度はエリスではなかった。


ユーリイだった。


「どうしました?」


クレールが尋ねる。


ユーリイは周囲を見回していた。


「昨日より獣が少ない」


誰も返事をしない。


だが。


言われてみればそうだった。


気配はある。


それでも。


近付いて来ない。


襲って来ない。


樹海へ入った頃とは明らかに違う。


「良い事じゃないっすか?」


リナが言う。


ユーリイは首を振った。


「分かりません」


それだけだった。


分からない。


だから怖い。


再び歩き始める。


午後。


今度はエリスが立ち止まった。


「聞こえます」


誰も驚かない。


全員が耳を澄ます。


聞こえない。


だが。


エリスには聞こえていた。


「昨日より近いです」


「何がです?」


ミトゥが尋ねる。


エリスは首を振った。


「分かりません」


それでも。


迷いは少なくなっていた。


昨日より近い。


それだけは確信している。


その時だった。


地面が揺れた。


僅かだった。


本当に僅か。


だが。


全員が気付いた。


「今……」


オーレリアが顔を上げる。


揺れは終わっていた。


風も無い。


樹々も静かだった。


「地震ですか?」


マルグリットが呟く。


誰も答えられない。


樹海へ入ってから初めての事だった。


ユーリイは周囲を見回した。


変化は無い。


倒木も無い。


獣の気配も無い。


だが。


何かが変わった気がした。


夕方。


野営。


焚火を囲む。


誰も大きな声では話さない。


疲れているからではない。


森を警戒していた。


「戻るべきでしょうか」


ふいにオーレリアが言った。


沈黙。


誰もすぐには答えない。


戻る。


その言葉は全員が考えていた。


「どこへです?」


静かに尋ねたのはメローペだった。


オーレリアは言葉に詰まる。


戻る場所。


その場所が分からない。


同じ場所を回っているのなら。


戻るという選択肢そのものが存在しない。


「……申し訳ありません」


オーレリアは俯いた。


メローペは首を振る。


「いいえ」


責めるつもりは無かった。


誰もが不安だった。


誰もが答えを欲していた。


焚火が揺れる。


その時。


エリスが森の奥を見た。


「近いです」


また同じ言葉だった。


だが。


今度は違った。


少しだけ。


確信が混じっていた。


「近付いています」


誰も言葉を返さない。


ただ。


森の奥を見る。


何も見えない。


それでも。


初めてだった。


進む理由が生まれたのは。


戻る場所は分からない。


だが。


エリスの聞く何かだけは。


確かに近付いていた。


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