不帰の樹海㉑
朝。
誰も昨夜の話を口にしなかった。
だが。
忘れた者もいなかった。
同じ樹。
同じ傷。
あれは見間違いではない。
全員が見た。
全員が知っている。
それでも。
進むしかなかった。
出発する。
先頭はエリスだった。
誰も異論はない。
今、この森で最も頼れるのは彼女の耳だった。
歩く。
樹海は変わらない。
樹。
霧。
湿った空気。
どこまでも続く景色。
昼頃。
再び立ち止まる。
今度はエリスではなかった。
ユーリイだった。
「どうしました?」
クレールが尋ねる。
ユーリイは周囲を見回していた。
「昨日より獣が少ない」
誰も返事をしない。
だが。
言われてみればそうだった。
気配はある。
それでも。
近付いて来ない。
襲って来ない。
樹海へ入った頃とは明らかに違う。
「良い事じゃないっすか?」
リナが言う。
ユーリイは首を振った。
「分かりません」
それだけだった。
分からない。
だから怖い。
再び歩き始める。
午後。
今度はエリスが立ち止まった。
「聞こえます」
誰も驚かない。
全員が耳を澄ます。
聞こえない。
だが。
エリスには聞こえていた。
「昨日より近いです」
「何がです?」
ミトゥが尋ねる。
エリスは首を振った。
「分かりません」
それでも。
迷いは少なくなっていた。
昨日より近い。
それだけは確信している。
その時だった。
地面が揺れた。
僅かだった。
本当に僅か。
だが。
全員が気付いた。
「今……」
オーレリアが顔を上げる。
揺れは終わっていた。
風も無い。
樹々も静かだった。
「地震ですか?」
マルグリットが呟く。
誰も答えられない。
樹海へ入ってから初めての事だった。
ユーリイは周囲を見回した。
変化は無い。
倒木も無い。
獣の気配も無い。
だが。
何かが変わった気がした。
夕方。
野営。
焚火を囲む。
誰も大きな声では話さない。
疲れているからではない。
森を警戒していた。
「戻るべきでしょうか」
ふいにオーレリアが言った。
沈黙。
誰もすぐには答えない。
戻る。
その言葉は全員が考えていた。
「どこへです?」
静かに尋ねたのはメローペだった。
オーレリアは言葉に詰まる。
戻る場所。
その場所が分からない。
同じ場所を回っているのなら。
戻るという選択肢そのものが存在しない。
「……申し訳ありません」
オーレリアは俯いた。
メローペは首を振る。
「いいえ」
責めるつもりは無かった。
誰もが不安だった。
誰もが答えを欲していた。
焚火が揺れる。
その時。
エリスが森の奥を見た。
「近いです」
また同じ言葉だった。
だが。
今度は違った。
少しだけ。
確信が混じっていた。
「近付いています」
誰も言葉を返さない。
ただ。
森の奥を見る。
何も見えない。
それでも。
初めてだった。
進む理由が生まれたのは。
戻る場所は分からない。
だが。
エリスの聞く何かだけは。
確かに近付いていた。




