不帰の樹海⑲
朝。
目を覚ました時。
エリスはすぐに耳を澄ませた。
聞こえる。
昨日と同じだった。
だが。
何が聞こえるのかは分からない。
「またですか?」
マルグリットが小さく尋ねる。
エリスは頷いた。
「近付いています」
それだけしか言えなかった。
出発する。
今日も歩く。
樹海は変わらない。
樹。
霧。
湿った空気。
何も変わらない。
何も。
昼頃。
エリスが足を止めた。
全員が反射的に止まる。
「どうしました?」
クレールが尋ねる。
「……分かりません」
エリスは困ったように答えた。
まただった。
聞こえる。
だが説明出来ない。
「気にしないでください」
クレールはそう言った。
責めるつもりはない。
今まで何度もエリスの耳に助けられてきたのだ。
そのまま進む。
しばらくして。
今度はマルグリットが立ち止まった。
「殿下」
メローペが振り向く。
「どうしたの?」
マルグリットは一本の樹を見ていた。
太い幹。
大きく張り出した根。
根元には、枯れた蔓が絡まっている。
どこにでもありそうな樹だった。
だが。
「……見覚えがあります」
小さな声だった。
「この樹に?」
オーレリアが近付く。
「分かりません」
マルグリットは首を振った。
「でも……この根元」
言葉が続かない。
自分でも馬鹿げていると思った。
この樹海に入ってから、似たような樹ばかり見ている。
根。
幹。
霧。
湿った空気。
見覚えなど、あって当然かもしれない。
それでも。
その場に立つと。
胸の奥が嫌な形で引っかかった。
リナが周囲を見回す。
「似たような樹なんて、いくらでもあるっす」
「そうですね」
マルグリットも頷いた。
「気のせいだと思います」
だが。
誰もすぐには動かなかった。
ユーリイは黙って樹へ近付いた。
根元を見る。
周囲を見る。
足元を見る。
踏み荒らされた土。
折れた小枝。
湿った腐葉土。
分からない。
分からないが。
何かが嫌だった。
「……試します」
短く告げる。
ユーリイは短剣を抜いた。
樹の幹へ深く刃を押し込む。
誰が見ても分かる傷。
見間違えようのない傷。
縦に一本。
横に一本。
交差する形。
刃を引き抜く。
「明日、同じ傷を見つけたら」
一瞬だけ間が空いた。
「考える必要があります」
誰も笑わなかった。
誰も否定しなかった。
再び歩き始める。
日が傾く。
森は相変わらず静かだった。
静か過ぎるほどに。
獣の気配はある。
だが姿を見せない。
鳥も少ない。
風の音ばかりが聞こえる。
「静かですね」
ユーリイが呟く。
隣を歩くタッカーが頷いた。
「静か過ぎます」
それ以上は続かなかった。
不吉だからだ。
夜。
焚火を囲む。
誰も余計な話はしない。
体力が残っていない。
炎だけが揺れていた。
その時。
エリスが顔を上げた。
「近いです」
全員が見る。
「何がです?」
ミトゥが尋ねた。
「分かりません」
エリスは悔しそうに答えた。
「でも近付いています」
沈黙。
誰も笑わない。
誰も否定しない。
聞こえるのなら。
聞こえるのだろう。
それだけだった。
焚火が小さく揺れる。
メローペは森の奥を見つめた。
何も見えない。
ただ暗い。
だが。
今日初めて。
この森を。
ただ深いだけの森だとは思えなくなっていた。
不帰の樹海の夜は静かだった。
静か過ぎるほどに。




