不帰の樹海⑦
移動は再開された。
だが。
空気は先程までとは明らかに違っていた。
誰もが理解している。
敵もまた、この森へ入ってきている。
そして。
もう“前線”など存在しない。
敵も味方も。
ただ森の中で、生き残ろうとしているだけだった。
雨は止まない。
樹々は空を覆い、昼だというのに薄暗い。
湿った空気が肺へ絡みつく。
濡れた腐葉土は柔らかく、時折足が深く沈み込む。
進んでいる。
確かに進んでいるはずなのに。
景色が変わらない。
同じような樹木。
同じような泥。
同じような雨音。
方角すら、もう曖昧だった。
後ろへ戻るという選択肢だけが、既に消えている。
前へ進むしかない。
生き残る為に。
だが。
進めば進むほど、人の気配が消えていった。
鳥の声すら少ない。
まるで。
森そのものが、自分達を呑み込もうとしているようだった。
「……不帰の樹海か」
誰かが小さく呟く。
「生きて帰れない森とは、言い得て妙だな」
誰も、その言葉を否定しなかった。
後方で誰かが膝をついた。
若い兵士だった。
顔色が悪い。
呼吸も荒い。
「立てるか?」
イヴェットが短く問う。
兵士は何度か頷こうとして。
結局、小さく首を振った。
「すみ……ません」
その声は掠れていた。
オーレリアがすぐに周囲を見る。
敵影はまだ無い。
だが、止まり続ける余裕も無かった。
「水を」
マルグリットが水筒を差し出す。
兵士は震える手で受け取り、少しだけ口を付けた。
その時だった。
側近の一人が、不安そうに周囲を見回す。
「……申し訳ありません、殿下」
その声に、メローペが顔を上げる。
「樹海を深く進まないよう気を付けていたのですが……」
悔しそうに唇を噛む。
「いつの間にか、かなり奥まで……」
言葉が続かない。
自分達がどこにいるのか。
もう誰にも分からなかった。
メローペはしばらく黙っていた。
雨音だけが続く。
やがて。
小さく息を吐く。
「いいや」
静かな声だった。
「君たちは、よくやっている」
側近達が顔を上げる。
泥。
疲労。
恐怖。
皆、限界が近かった。
それでも。
ここまで王女を連れてきた。
「なんなら」
メローペは、少しだけ笑った。
その笑顔は疲れていた。
だが。
不思議と力のある笑みだった。
「生きて伝説を作ろうじゃないか」
数人が、小さく息を呑む。
誰かが苦笑した。
ほんの僅か。
張り詰めていた空気が緩む。
その時だった。
リュシエンヌが、不意に森の奥を見た。
「……誰かいる」
全員の動きが止まる。
オーレリアが短剣へ手をかけた。
静かに。
音を立てず。
「数は」
「一」
短い返答。
敵か。
味方か。
分からない。
だが次の瞬間。
樹木の向こうから、一つの影が現れた。
軍服。
泥。
血。
その姿を見て、数人の兵士が息を呑む。
腕章。
破れた袖に残る中隊章。
王国軍。
救援に投入された精鋭中隊のものだった。
だが。
女兵士は、まともに立てていなかった。
片腕が力なく垂れ、顔の半分が血で汚れている。
それでも。
彼女は何かを言おうとしていた。
「……た……す……」
足が崩れる。
地面へ倒れ込む。
メローペが思わず一歩前へ出る。
「生きています!」
マルグリットがすぐ膝をつく。
オーレリアも周囲を警戒したまま近付いた。
女兵士は酷い熱を出していた。
呼吸も浅い。
血の臭いとは別に。
何か嫌な臭いが混じっている。
「傷が腐ってる……」
誰かが小さく呟く。
女兵士の身体は震えていた。
熱。
疲労。
飢え。
限界だった。
それでも。
彼女はメローペの軍服を見て、必死に目を見開く。
肩章。
護衛の位置。
泥に汚れても消えない王家の徴。
彼女は、捜索対象を知っていた。
叩き込まれていた。
第四王女メローペ・アデス。
軍務官。
准将待遇。
随行側近あり。
発見時は、何よりも生存確認を優先せよ。
「……でん……か……」
声は潰れていた。
それでも、確かに届いた。
「……ご……ぶ……じ……」
メローペの胸が詰まる。
この兵士は。
自分を探していたのだ。
この森の奥まで。
命を削って。
「喋らなくていい」
オーレリアが低く言う。
だが女兵士は、それでも何かを伝えようとしていた。
震える指が、森の奥を向く。
「……く……る……」
その瞬間。
遠くで、鳥達が一斉に飛び立った。
空気が変わる。
オーレリアの顔が険しくなる。
この兵士は一人で来た訳ではない。
この兵士を追ってきたものがいる。
あるいは。
この兵士が逃げてきたものがいる。
「——伏せろ!!」
直後。
森の奥から銃声が響いた。




