不帰の樹海⑤
雨脚は更に強くなっていた。
空気が重い。
濡れた軍服が肌へ張り付き、体力を奪っていく。
誰も口数が少なかった。
走る。
止まる。
周囲を警戒する。
また走る。
それを繰り返している。
どれくらい進んだのか、もう分からない。
「……まだ歩けますか? 必要なら小休止をとりますが……」
前方を警戒しながら、ジゼル・ベルナールが静かに問いかける。
「私なら大丈夫だ」
メローペは息を整えながら答えた。
「次の沢に出たら小休止をとろう。それまで頑張ろう」
「「イエッサー!」」
ジゼルとマチアドの声が重なる。
僅かに緊張が緩んだ。
ほんの少しだけ。
まだ士官学校の空気が残っている。
そんな返事だった。
オーレリアは周囲を警戒したまま、小さく息を吐く。
「……沢までは五分ほどです」
「分かった」
その頃には、もう砲声も少し遠くなっていた。
だが
静か過ぎる事が逆に不気味だった。
敵もまた、森の中へ入ってきている可能性が高い。
誰もそれを口にはしない。
やがて
細い沢が見えてきた。
「二分休憩!」
オーレリアが短く告げる。
兵士達がその場へ崩れるように腰を下ろした。
誰も大きな声を出さない。
荒い呼吸だけが聞こえる。
マルグリットはすぐにメローペの隣へ膝をついた。
「お水を」
「ああ……ありがとう」
冷たい水が喉を通る。
それだけで、少しだけ意識が戻る気がした。
メローペは近くへ座るジゼルを見た。
眼鏡の片側が割れている。
泥だらけだった。
それでも彼女は、濡れたノートを必死に服の内側へ押し込んでいた。
「ジゼル」
「はい、殿下」
「聞いたことがなかったな。君は何期だ?」
「第137期です」
メローペは小さく目を細めた。
「私とマチアドの三期上か。イヴェットもそうだったな?」
「そうですね」
イヴェットが小さく頷く。
「彼女は優秀でしたよ。常にトップで、学年で三席より下になった事もありません」
「ほう……」
メローペは少し感心したように息を漏らした。
「近衛の中でも特に優秀だったのだな。軍人の家系か?」
「いえ」
ジゼルは苦笑した。
「貧乏騎士爵家の十女です」
「十女……」
「本当は学者になりたかったのですが、女学院に入る事が叶わず、士官学校へ入りました」
その言葉に
マルグリットが僅かに表情を和らげる。
「“本の虫のジゼル先輩”と言えば伝説でしたよね」
「……やめて下さい」
珍しく、ジゼルが少し困った顔をした。
「士官学校でお会いする事はありませんでしたが、マーガレット・ハメル教官から聞いた事があります」
「余計な事まで話していそうですね……」
周囲で小さな笑いが漏れた。
ほんの一瞬
戦場の空気が消える。
メローペも小さく笑った。
「では、軍務が終われば念願の学者か」
「士官学校卒業後、五年間の軍務終了で女学院大学院へ編入できるので」
ジゼルは濡れた前髪を払いながら続ける。
「もう少し頑張る予定です」
少しだけ視線を落とした。
「研究したい題材もありますし」
「ほう?」
「王国東部の古代街道です。まだ未調査区域も多くて……」
そこまで言って
ジゼルは我に返ったように口を閉じた。
「すみません。つい」
「いや」
メローペは首を振る。
「好きな事を語る人間の話は嫌いではない」
ジゼルは少し照れ臭そうに笑った。
その笑顔は年相応だった。
近衛というより
どこにでもいる学問好きの少女のように見えた。
その時だった。
前方を警戒していたオーレリアが、突然顔を上げる。
空気が変わった。
「——静かに」
その声で、全員の表情が引き締まる。
オーレリアの目が森の奥を見ていた。
雨音。
沢の流れる音。
その奥
微かに
何かが聞こえる。
足音だった。
イヴェットも同時に顔を上げる。
「……来る」
低い声。
先程までの柔らかな空気が、一瞬で消えた。
全員が武器へ手を伸ばす。
雨は、まだ降り続いていた。




