不帰の樹海④
雨は、すぐに土を泥へ変えた。
軍靴が沈む。
滑る。
転びそうになる。
それでも止まれなかった。
後ろから絶え間なく砲声が響いている。
時折混じる銃声が、異様に近い。
「急げ!!」
オーレリアが前方で叫ぶ。
その声だけが、不思議とよく通った。
メローペは必死に足を動かす。
呼吸が苦しい。
肺が焼けるようだった。
こんな風に走った事など無い。
王城でも。
士官学校でも。
こんな泥の中を、死に物狂いで走る訓練など無かった。
「殿下!」
横からマルグリットが支える。
一瞬足を取られたらしい。
メローペは小さく息を呑む。
「す、すみません……」
「謝らないで下さい!」
珍しく強い声だった。
マルグリットの顔も、既に泥だらけだった。
後方で悲鳴が響く。
誰かが倒れた。
振り返りそうになる。
だが。
「前だけ見て下さい!!」
またオーレリアの声。
その声に押されるように、メローペは前を向いた。
周囲の兵士達も限界だった。
疲労。
空腹。
睡眠不足。
そこへ突然の敵襲。
既に部隊としての形は崩れ始めている。
それでも誰も逃げ出さない。
王女がいるからだ。
その事実が、メローペの胸を締め付けた。
その時。
前方を走っていた兵士が突然立ち止まる。
「……何だ?」
誰かが呟いた。
次の瞬間。
樹木の向こうから、複数の影が飛び出した。
「敵——!!」
銃声。
一人の兵士が吹き飛ぶ。
「撃てぇっ!!」
怒号。
火花。
硝煙。
森の中で銃撃戦が始まった。
あまりにも近い。
兵士達が次々と撃ち返す。
だが。
敵との距離が近過ぎる。
「オーレリア!!」
マルグリットが叫ぶ。
オーレリアは即座に短剣を抜いた。
迷いが無い。
飛び込んできた敵兵の腕を弾き、そのまま喉元へ刃を滑らせる。
血が飛んだ。
だが止まらない。
二人目。
三人目。
雨と泥で足場は最悪だった。
それでもオーレリアは前へ出る。
「下がれ!!」
鋭い声。
兵士達が僅かに下がる。
その隙を埋めるように、オーレリアが前へ出た。
その姿を見て。
メローペは初めて理解した。
オーレリア・ド・モンテスは。
ただ穏やかなだけの人ではない。
必要ならば、人を斬る事を躊躇わない人間なのだと。
「殿下!!」
オーレリアが叫ぶ。
「今です!!」
その瞬間。
兵士達が一斉に突破口を開く。
「走れぇっ!!」
怒号。
メローペは再び走った。
泥。
雨。
血。
硝煙。
全てが混ざる。
後ろでは、まだ戦う音がしていた。
誰かが時間を稼いでいる。
自分達を逃がす為に。
その時だった。
横を走っていた若い近衛兵が、突然メローペの前へ飛び出した。
直後。
銃声。
近衛兵の身体が大きく揺れる。
血が飛ぶ。
「……っ!」
メローペの息が止まる。
近衛兵は崩れ落ちながら、それでも振り返った。
まだ若い顔だった。
「……殿下」
口から血を流しながら。
それでも。
笑った。
「ご無事で……」
その身体が崩れ落ちる。
メローペの視界が揺れた。
「殿下!!」
オーレリアの声。
「止まらないで下さい!!」
その声は、ほとんど悲鳴だった。
メローペは唇を噛み、前を向く。
走る。
ただ。
走るしかなかった。
遠く。
黒い森が見えていた。
まるで。
口を開けて待っているように。




