不帰の樹海②
前線司令部は、湿った空気に満ちていた。
天幕の中では地図が広げられ、数人の士官達が低い声で言葉を交わしている。
誰も大声を出さない。
いや、出せなかった。
その余裕が、もう無い。
「第三補給路が昨夜途絶しました」
「第五陣地、負傷者多数」
「増援は?」
「未到着です」
「……未到着?」
空気が僅かに重くなる。
メローペは黙ってそれを見ていた。
士官学校で学んだ。
補給。
兵站。
継戦能力。
軍は補給無しでは戦えない。
それは知識として知っていた。
だが。
実際に補給線が崩れ始めた軍の空気を、彼女は初めて見ていた。
誰もが疲れている。
それでも動いている。
その姿は、逆に不気味だった。
「殿下」
オーレリアが小さく声をかける。
「こちらへ」
メローペは静かに頷き、天幕の外へ出た。
湿った風が吹く。
空は重い灰色だった。
遠くから砲撃音が響いてくる。
低く。
鈍く。
腹に響く音。
「……戦況は良くないのですね」
メローペが呟く。
オーレリアは数秒沈黙した。
「はい」
短い返答だった。
誤魔化さない。
それが逆に、彼女らしかった。
「ですが、まだ崩壊してはいません」
その言葉に、僅かに軍務官としての響きが混じる。
メローペはオーレリアを見た。
穏やかな表情。
落ち着いた声音。
だが、その瞳だけは常に周囲を見ている。
兵士。
荷車。
空。
退路。
恐らく、ずっと。
「オーレリア」
「はい」
「あなたは……怖くないのですか?」
オーレリアは一瞬だけ目を瞬かせた。
そして。
少し困ったように笑う。
「怖いですよ」
即答だった。
「毎日怖いです」
「でも」
彼女は空を見る。
「怖がっていても、状況は良くなりませんから」
その声は静かだった。
だが、不思議と落ち着く声だった。
メローペは小さく息を吐く。
「……強いのですね」
「そんな事ありません」
オーレリアは苦笑した。
「私は殿下の側近ですから」
その返答は、あまりにも自然だった。
その時。
遠くで怒声が響いた。
次いで。
兵士達が走る音。
空気が変わる。
オーレリアの表情から、一瞬で柔らかさが消えた。
「何があった?」
近くの兵士へ鋭く問いかける。
その声音に、メローペは思わず目を見開いた。
先程までとは別人だった。
兵士が息を切らしながら答える。
「ほ、報告! 第七陣地後方で敵影確認!」
「数は!?」
「不明です!」
オーレリアは即座に周囲を見渡した。
「マルグリット、殿下を馬車へ」
「オーレリア?」
「念のためです」
その言葉と同時に。
遠くで爆音が響いた。
地面が揺れる。
兵士達の顔色が変わる。
オーレリアの目が細くなった。
「……近い」
次の瞬間。
さらに爆発音。
今度は、さっきよりも近かった。
誰かの悲鳴。
怒号。
走る音。
空気が一変する。
メローペは、自分の鼓動が急に速くなるのを感じた。
さっきまでの“戦場”とは違う。
これは。
もっと生々しい何かだった。
「殿下、こちらへ!」
マルグリットがメローペの腕を掴む。
その時だった。
天幕の向こうから、一人の伝令兵が転がり込むように走ってきた。
顔面蒼白。
泥だらけ。
「て、敵が——!」
そこで言葉が切れる。
背後で銃声が響いた。




