不帰(かえらず)の樹海①
申し訳ありません。
当初、私のミスによりこの物語には「クレール」という名前のキャラクターが二人存在していました。
・クレール・ド・モンテス(メローペ第四王女側近の一人)
・クレール・ドロワ中佐(本章時点では少尉)
現実には同じ名前の人物が存在しても不自然ではありませんが、小説という形式上、シーンによっては読者の皆様に混乱を生じさせる可能性があると判断しました。
また、クレール・ドロワの方が先に設定されていたキャラクターである為、クレール・ド・モンテスの名前を変更することにしました。
以後、クレール・ド・モンテスは「オーレリア・ド・モンテス」に変更となります。
過去エピソードについても、順次修正していく予定です。
ご迷惑をおかけしますが、今後ともよろしくお願いいたします。
暗い。
湿った土の臭いがする。
泥に沈んだ靴が、重い。
誰かが怒鳴っている。
遠い。
いや、近い。
自分の鼓動がうるさ過ぎて、何を言っているのか分からない。
喉が焼けるように乾いていた。
雨。
樹木。
血。
汗。
腐葉土。
鼻の奥にまとわりつく生臭さ。
薄暗い森の中で、誰かが倒れた。
誰だ。
分からない。
いや——分かっている。
『伏せろぉっ!!』
爆音。
土。
衝撃。
誰かの悲鳴。
自分も叫んでいた気がする。
耳鳴り。
泥。
血。
樹木。
暗い。
暗い。
暗い。
「あ……」
ユーリイは小さく息を吐いた。
薄く開いた窓から朝の光が差し込んでいる。
汗で張り付いた髪を掻き上げ、しばらくぼんやりと天井を見上げた。
「夢か……」
いつもの夢だった。
最近は減っていた。
だが、完全に消えることはない。
特に雨の日は駄目だ。
湿った空気の臭いで、記憶が勝手に蘇る。
ユーリイはゆっくり身体を起こした。
少しだけ、心臓が速い。
窓の外から、パンを焼く香りが漂ってきた。
その匂いで、ようやく現実へ戻ってくる。
いつもの朝。
いつもの王都。
いつもの日常。
それでも。
あの森の記憶だけは、今でも身体の奥にこびりついて離れない。
ユーリイは小さく息を吐き、立ち上がった。
◇
数年前。
王国東部戦線。
既に戦況は悪化していた。
本来なら、メローペ王女一行が赴く場所ではない。
だが当時の王国軍は、まだ持ち堪えていた。
少なくとも、上層部はそう考えていた。
戦線視察。
兵士慰問。
士気高揚。
王族が前線へ赴くこと自体は珍しい話ではない。
現女王プレイオネ二世も士官学校出身であり、若き頃には幾度も前線視察を行っている。
メローペもまた、その一人だった。
軍務官としての教育を受けた王女。
王族として軍を知る者。
それが、彼女の立場だった。
だが。
実際の戦場は、教本の中には収まっていなかった。
「殿下、本日の視察は第三陣地までとなります」
オーレリア・ド・モンテスが静かに告げた。
若い女性だった。
柔らかな声音。
穏やかな微笑み。
だが、その琥珀色の瞳だけは、常に周囲を観察していた。
「分かりました」
メローペは静かに頷いた。
馬車の外では、兵士達が忙しなく動いている。
土嚢。
弾薬箱。
泥。
濡れた軍靴。
空気には常に火薬の臭いが混じっていた。
それでも、この時点ではまだ“管理された戦場”だった。
少なくともメローペは、そう思っていた。
「……疲れてはいませんか?」
向かい側に座るマルグリットが、小さく問いかける。
「大丈夫です」
そう答えながら、メローペは窓の外を見る。
兵士達の顔は疲れていた。
だが、まだ笑顔もあった。
王女の姿を見れば敬礼し、声を張る余裕もある。
この時は、まだ。
「思ったより落ち着いていますね」
メローペがそう呟くと。
オーレリアが一瞬だけ沈黙した。
「……はい」
その返事は、僅かに遅かった。
メローペは気付かなかった。
だが。
オーレリアは既に理解していた。
前線が、軋み始めている事を。
補給の遅れ。
負傷兵の増加。
伝令速度の低下。
そして何より。
兵士達の目。
あれは、“持ち堪えている軍”の目ではない。
オーレリアは窓の外へ視線を向けた。
遠くの空は、黒かった。




