現場
北棟は騒然としていた。
廊下に人が溢れている。
呻き声。
吐瀉物の臭い。
泣き声。
女官たちが右往左往していた。
「近付かないで下さい!」
「水を!」
「誰か典医殿を……!」
その時。
「そこを開けて下さい」
低い声が通る。
空気が割れた。
ミークニー・ザッカーだった。
白衣の裾を翻しながら歩いてくる。
後ろには補佐官。
薬箱。
布。
煮沸用の器具。
ミークニーは周囲を一瞥する。
そして。
「軽症者と重症者を分けて下さい」
「立てる人は壁側へ」
「動けない方はこちら」
即座に指示を飛ばす。
女官たちが慌てて動き始める。
混乱していた空気へ、軸が通る。
ミークニーはしゃがみ込んだ。
倒れている女官の顔色を見る。
腹部を軽く押す。
「……食事は?」
「昼の鶏肉を……皆で……」
「水は?」
「井戸です……」
ミークニーが短く頷く。
「厨房は閉鎖しましたか」
後ろの女官が慌てて答える。
「は、はい!」
「使った水桶も隔離を」
「あと調理担当者を呼んで下さい」
矢継ぎ早。
迷いがない。
女官たちは半ば呆然としながら従っていた。
その時。
廊下の奥で若い女官が崩れ落ちた。
「っ……!」
周囲が悲鳴を上げる。
だが。
ミークニーは走らない。
早足で向かう。
膝をつく。
脈。
呼吸。
目。
数秒。
「脱水です」
「塩水を」
「あと毛布」
即答だった。
周囲が動き出す。
誰も反論しない。
出来ない。
その空気があった。
ミークニーは女官へ水を飲ませながら、小さく息を吐く。
「……遅い」
誰にも聞こえないほど小さい声。
だが。
悔しそうだった。
そこへ。
「典医殿」
伯爵が現れる。
護衛を伴っていた。
周囲の女官たちが慌てて頭を下げる。
だが。
ミークニーは振り返らない。
「入らないで下さい」
即答。
伯爵の眉が僅かに上がる。
「私にもか?」
「貴方にもです」
ミークニーは手を止めない。
「ここは感染区域です」
「貴方が倒れる方が問題になる」
数秒沈黙。
そして。
伯爵が小さく笑った。
「……分かった」
素直に一歩下がる。
護衛たちが驚いた顔をした。
閣僚級貴族へ、あそこまで即座に言い切る者は少ない。
だが。
ミークニーは気にしていなかった。
今優先するべきは、目の前の命だった。
その時。
若い女官の一人がぽつりと呟く。
「……本当にお医者様なんだ」
誰も笑わなかった。
新聞の中の英雄。
樹海帰還者。
謎の男。
そんな噂より。
今目の前で。
吐瀉物まみれになりながら人を助けている白衣の男の方が。
ずっと現実だった。




