田舎娘
雨だった。
訓練場の地面はぬかるみ。
靴が沈む。
灰色の空。
冷たい風。
新兵たちは泥だらけだった。
「走れ!!」
怒号が飛ぶ。
若い兵士たちが悲鳴混じりに走っていく。
転ぶ。
起きる。
また走る。
その横。
セリナ・ロスニー曹長は腕を組んで立っていた。
軍服は雨で濡れている。
だが。
本人は気にしていない。
「遅いっすねぇ」
ぼそりと呟く。
隣の教官が苦笑した。
「お前基準で言うな」
「いやいや」
リナは首を振る。
「これくらい出来ないと死ぬっす」
軽い口調。
だが。
冗談ではなかった。
新兵の一人が転ぶ。
泥へ顔から突っ込む。
動きが止まる。
リナが歩く。
ぬかるみを踏みながら。
その新兵の前へ立った。
若い女兵士だった。
まだ幼い。
息も上がっている。
悔しそうに唇を噛んでいた。
「立つっす」
リナが言う。
「……っ」
「立てるなら立つ」
「無理なら這う」
「止まるな」
静かな声だった。
新兵が震えながら立ち上がる。
その瞬間。
リナの脳裏へ、別の景色が浮かんだ。
雨。
泥。
血。
樹海前線。
若かった自分。
足が震えていた。
銃も重かった。
何も出来なかった。
その時。
前を歩いていた女が振り返る。
ナターシャ。
短く切った髪。
大柄。
いつも不機嫌そうな顔。
だが。
背中は大きかった。
『止まるな』
低い声。
『止まった奴から死ぬ』
リナはあの時、必死に頷いた。
怖かった。
置いていかれるのが。
死ぬのが。
だから走った。
転んでも。
吐いても。
泣いても。
走った。
「曹長?」
声で意識が戻る。
新兵が不安そうにこちらを見ていた。
リナが瞬きをする。
「あー……悪いっす」
頭を掻く。
「ちょっと昔思い出してた」
新兵が息を整えながら聞く。
「曹長も……最初はこんな感じだったんですか」
周囲の新兵たちも耳を向ける。
英雄曹長。
樹海帰還者。
化け物。
今の彼女はそう呼ばれている。
だが。
リナは少し考えてから笑った。
「もっと酷かったっすよ」
「毎日泣いてたし」
新兵たちが目を丸くする。
「えっ」
「うそ……」
「本当本当」
リナが笑う。
「田舎娘だったんすよ、あたし」
「王都なんか怖かったし」
「軍も怖かったし」
「先輩もっと怖かったっす」
少しだけ。
空気が和らぐ。
その時。
リナの目が細くなる。
「でも」
声が落ちる。
「死にたくなかった」
雨音。
訓練場へ静かに落ちる。
「だから走った」
「そしたら、今ここっす」
短い言葉だった。
だが。
新兵たちは黙って聞いていた。
リナが手を叩く。
ぱん、と乾いた音。
「はい、休憩終わり!」
「走るっすよー!」
「うぇぇ……」
悲鳴が上がる。
だが。
さっきより足は前へ出ていた。
リナはそれを見ながら、小さく笑う。
遠い昔。
自分もまた。
誰かに背中を押されて走っていた。




