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遺伝子の小さな箱庭  作者: 妙義豊
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パンの匂い

王都の朝は、静かだった。


あれだけの騒ぎがあったにも関わらず。


市場は開く。


鐘は鳴る。


荷馬車は石畳を軋ませる。


人は生きる。


まるで何事もなかったように。


その光景を。


ユーリイはパン屋の屋根から眺めていた。


「……平和だな」


小さく呟く。


その横。


リナが寝転がったまま欠伸をした。


「平和っすねぇ……」


「筋肉痛っす」


「屋根飛び過ぎだ」


「ユーリイさんもっす」


朝日が差す。


乾いた風。


遠くでパンを焼く匂いがした。


下。


店の裏口が勢いよく開く。


「おい馬鹿共!!」


タッカーだった。


包帯だらけ。


なのに普通に立っている。


「働け!!」


リナが真顔で答える。


「重傷患者への配慮が足りないっす」


「誰のせいだ!!」


「敵っすね」


「お前も原因だろうが!」


怒鳴り声。


王都の朝へ響く。


ユーリイが屋根から飛び降りた。


軽い音。


石畳へ着地する。


タッカーが眉をひそめる。


「お前、ほんと人間やめてきたな」


「今更か?」


「今更だな……」


店の中。


焼き立ての香りが広がっていた。


バター。


砂糖。


小麦。


戦場とは真逆の匂い。


ユーリイは少しだけ目を細める。


この匂いは嫌いじゃない。


むしろ。


落ち着く。


タッカーが鉄板を引き抜く。


並んでいるのは、層状の焼き菓子だった。


リナが顔を出す。


「お、クイニーアマンっすか」


「お前よく名前覚えてるな」


「美味いものは覚えるっす」


「最低だなお前」


「褒め言葉っすね」


その時。


表の扉が開いた。


鈴が鳴る。


「……営業中?」


女の声。


そこに立っていたのは。


オーレリア・ド・モンテスだった。


柔らかな栗色の髪。


淡い色のワンピース。


完全に私服だった。


オーレリアが店内を見回す。


包帯だらけの元兵士。


粉まみれのパン屋。


焼き菓子。


そして。


棚を拭いているユーリイ。


数秒。


オーレリアは不思議そうに瞬きをした。


「……本当にパン屋なんだ」


「失礼だな」


タッカーが返す。


「一応本業だ」


「副業が戦争みたいになってるっすけどね」


「やめろ」


オーレリアが小さく笑った。


そして。


視線がユーリイへ向く。


昨日。


瓦礫の上を走っていた男。


王女の腕を引き。


黒装束を落としていた男。


だが今は。


雑巾を片手に棚を拭いている。


オーレリアが言葉を探す。


「戦士っぽいと思ってた」


「……あの時みたいにね」


沈黙。


その直後。


リナが吹き出した。


「今じゃ野良猫みたいっすよね?」


「すぐシャーってやるし」


「誰がだ」


「しかも昨日、屋根から三回くらい落ちかけてたっす」


「余計な事言うな」


「端っこで足滑らせてたっすよ?」


「黙れ」


オーレリアが堪えきれず笑った。


柔らかい笑いだった。

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