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遺伝子の小さな箱庭  作者: 妙義豊
39/91

黒い馬車

笑っていた。


それだけだった。


だが。


ユーリイの背筋を、嫌なものが走る。


「……見えてたんですね」


メローペが小さく呟く。


「見えた」


短い返答。


ユーリイは黒い馬車から目を離さない。


紋章なし。


護衛なし。


なのに。


周囲が不自然に空いている。


「絶対まともじゃないっすね」


リナが顔をしかめる。


タッカーが低く言った。


「どうする」


誰もすぐには答えなかった。


下では。


中央衛兵隊が動いている。


鐘も鳴り続けている。


王都全体が騒ぎ始めていた。


なのに。


あの馬車だけが妙に静かだった。


ユーリイが小さく息を吐く。


「……誘ってる」


「だろうな」


タッカーが頷く。


「でも、あれ放置するともっと嫌なことになる気もするっす」


リナが珍しく真面目な声で言った。


マルグリットは剣へ手を掛けたまま、馬車を睨む。


護衛官として。


本来ならメローペを離脱させるべきだった。


だが。


今この場で。


一番状況を読んでいるのは誰か。


嫌でも分かってしまっていた。


メローペが静かに口を開く。


「ユーリイ」


「はい」


「お前はどうしたい」


沈黙。


風が吹く。


屋根の上で、洗濯布が揺れた。


ユーリイは黒い馬車を見る。


その目は。


樹海で伏兵を探していた時と同じだった。


「……近付きます」


マルグリットが即座に反応する。


「危険だ」


「はい」


「罠かもしれん」


「たぶん罠です」


即答だった。


マルグリットが言葉を失う。


だが。


ユーリイは視線を逸らさない。


「でも」


「向こう、“見られてもいい”動きしてる」


「つまり、何か見せたいんです」


リナが嫌そうな顔をした。


「うわぁ……」


「俺も嫌だ」


タッカーがぼやく。


メローペだけが静かだった。


「行くなら、どう行く」


ユーリイはすぐ答える。


「二手」


「俺とリナで近付く」


「タッカーとマルグリットさんで殿下を——」


「嫌だ」


即答だった。


全員がメローペを見る。


メローペは真顔だった。


「置いていかれるのは嫌だ」


ユーリイが頭を抱えそうな顔になる。


「殿下……」


「樹海でもそうだった」


「置いていかれる方が怖い」


静かな声。


だが。


妙に重かった。


マルグリットが目を閉じる。


それは。


護衛官としては失格に近い感情だった。


だが。


樹海を越えた少女としては。


あまりにも自然だった。


ユーリイが観念したように息を吐く。


「……分かりました」


「絶対離れないでください」


メローペが小さく頷く。


その時だった。


下の広場。


黒い馬車の扉が。


ゆっくり開いた。


全員の空気が変わる。


中から降りてきたのは。


濃い灰銀の髪を肩に流した女。


三十代半ば。


黒いドレス。


白い手袋。


そして。


口元だけが笑っていた。


女はゆっくりと屋根の上を見る。


真っ直ぐ。


ユーリイたちを見る。


「——見つけた」


その声は。


鐘の音より静かなのに。


妙に耳へ残った。


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