適切な怖がり方
王都西区。
石造りの建物が並ぶ一角。
昼だというのに、路地は妙に暗かった。
陽が入りにくい。
頭上を洗濯物が横切り。
湿った臭いが残る。
マルグリットは周囲へ視線を流した。
「ここが最後の確認地点だ」
短い声。
少し離れた場所では憲兵たちが立っている。
だが。
空気が緩い。
もう終わった現場として扱われているのだろう。
ユーリイはしゃがみ込む。
石畳へ触れる。
指先で汚れをなぞる。
「……雑だな」
マルグリットが眉を動かした。
「何が分かる」
「分かるというより、残ってない」
ユーリイは立ち上がる。
窓。
屋根。
逃げ道。
人の流れ。
視界へ一度全部入れる。
「抵抗した痕が少ない」
「血もない」
「争った感じもない」
一拍。
「……綺麗すぎる」
マルグリットは腕を組む。
「自分から姿を消した?」
ユーリイはすぐには答えなかった。
少しだけ考える。
そして。
「そんなに知っているわけではないが」
静かな声。
「あの人が簡単に攫われる訳ない」
マルグリットが視線を向ける。
ユーリイは続けた。
「彼女が意図的に姿を消したか」
「……とても大きな悪意に巻き込まれたか」
風が抜ける。
洗濯物が揺れた。
マルグリットが低く聞く。
「そんなに凄い兵士だったのか?」
ユーリイは少し考えてから首を振った。
「いや」
「気が小さくて、いつもビクビクしていた」
「小さなことに拘る人でした」
「街で会ったら、小役人かと思うような人ですよ」
マルグリットが僅かに眉を動かす。
「小役人……」
「だけど、あの人の立てる作戦は綿密だった」
ユーリイは路地の先を見る。
どこか遠くを見るような目。
「被害を極力出さず」
「どうやったら生きて帰れるかを、ずっと考えていた」
一拍。
「俺は、あの人から“適切な怖がり方”を教わった」
静寂。
遠くで荷車の音が鳴る。
マルグリットは少しだけ意外そうな顔をした。
「お前にも怖いものがあるのか」
「ありますよ」
即答だった。
「死ぬの怖いですし」
「痛いのも嫌です」
「腹減るのも嫌いです」
「あと、怒鳴る人も苦手です」
「最後のは誰のことだ」
「教官殿です」
ユーリイが小さく笑う。
その笑みを見て。
マルグリットは初めて少しだけ理解した。
この男たちは。
死を恐れなかった訳ではない。
むしろ逆だ。
恐れていた。
恐れていたから。
生き残ろうとした。
そして。
生き残ってしまった。
「……その教官というのは」
マルグリットが静かに聞く。
ユーリイの目が少し細くなる。
「ネメシス・ペルサキス大佐…いや准将」
一瞬。
空気が止まった。
マルグリットの目が僅かに揺れる。
その名を知らない軍人はいない。
“裏切り者と言われた英雄”。
あるいは。
“逆賊の忠臣”。
かつて失脚し。
後に女王自ら名誉を回復した将官。
ユーリイは気付いていないのか。
あるいは気付いた上で気にしていないのか。
そのまま続けた。
「無駄な特攻を嫌う人でした」
「でも」
「後がなくなったら前へ出ろって人だった」
マルグリットは黙って聞いている。
「“生きて帰れ”が口癖でしたよ」
「陛下の兵なら、生きてまた戦えって」
その声には妙な熱はない。
信仰を語るようでもない。
ただ。
身体へ染み付いたものを口にしているだけだった。
マルグリットは静かに息を吐く。
——この男たちは、本当に“あの人”の教え子なのだと。
その時だった。
「ユーリイさーん」
軽い声。
二人が振り向く。
路地の入口。
小柄な女軍人が手を振っていた。
セリナ・ロスリー曹長。
英雄曹長。
その後ろには、紙袋を抱えたタッカーまでいる。
「差し入れっす」
「パン屋が暇そうだったから連れてきたっす」
「おい、俺は荷物持ちじゃねぇぞ」
「パン持ってる時点で荷物持ちっす」
「理不尽だな?」
いつもの軽口。
だが。
ユーリイの顔から、ほんの少しだけ硬さが消える。
その直後。
路地の奥から、別の影が現れた。
護衛を伴った一人の少女。
いや。
この国でその呼び方は許されない。
第四王女メローペ。
リナの目が一瞬で見開かれる。
「おぉおお王女殿下! 失礼しますっ!」
勢いよく敬礼。
メローペは少しだけ口元を緩めた。
「久しいな、英雄軍曹——いや、曹長だったか」
返礼。
リナの顔がぱっと明るくなる。
「昇進したっす!」
「そこ大事っすよ!」
タッカーが吹き出す。
ユーリイが小さく目を逸らす。
マルグリットだけが頭を抱えたそうな顔をしていた。
だが。
メローペは少し楽しそうだった。
樹海で共に地獄を越えた者たち。
王女と兵士。
本来なら交わらない距離。
それでも。
ここには確かに、戦場を越えた者同士の空気が残っていた。
リナがふと周囲を見る。
その瞬間だけ。
表情が変わった。
軽さが消える。
「……嫌な感じっすね」
短い声。
ユーリイが頷く。
タッカーも笑みを消していた。
マルグリットは、その空気の変化を感じ取る。
いや。
感じ取ってしまう。
樹海で、何度も味わった空気だった。
何かが噛み合わない時の静けさ。
嫌な予感が形になる直前の空気。
そして。
ユーリイたち三人もまた、同じものを感じている。




