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遺伝子の小さな箱庭  作者: 妙義豊
31/93

答え合わせ

石畳を、乾いた靴音が響く。


昼過ぎ。


王都中央へ続く通りは、人で溢れていた。


荷車。


露店。


呼び込み。


焼きたてのパンの匂い。


巡回中の若い兵士は、周囲へ視線を流しながら歩いていた。


隣には、中年の軍曹。


王都駐屯の古参兵だ。


口うるさいが、面倒見は悪くない。


その時だった。


前方を歩く背中に、若い兵士の足が止まる。


「あ……」


一定の歩幅。


人混みに混じっているようで、どこにも混じっていない歩き方。


見覚えがあった。


軍曹が眉を動かす。


「どうしたんだい」


若い兵士は答えない。


答えられなかった。


記憶が繋がる。


焼き印。


通りの沈黙。


そして。


『英雄だ、我が軍の』


以前、この通りで。


隣に立つ百戦錬磨の上官が敬礼した男。


若い兵士の喉が小さく鳴る。


「あの時の……」


軍曹が小さく鼻を鳴らした。


「ようやく分かったのかい」


若い兵士は目を見開く。


「いや……でも……」


頭の中が整理できない。


訓練所で聞いた。


第四王女救援作戦。


帰らずの樹海。


第893小隊。


王女生還。


生還者たち。


教官たちは語る。


少数生存行動。


補給切れ対応。


夜間撤退。


極限行軍。


だが。


若い兵士にとって、それは半分御伽噺だった。


だって。


男だ。


男が軍隊にいる。


それ自体が、現実感のない話だった。


この世界で男は。


家にいるものだ。


守られるものだ。


所有されるものだ。


社会の表へ出る存在ではない。


まして。


戦場など。


だが。


目の前の男は。


何でも屋として街を歩き。


女たちと軽口を叩き。


一人で生きている。


軍曹は前を見たまま言った。


「本当だよ」


短い返答。


「でも、お前が思ってるような綺麗な話ばかりじゃない」


一拍。


「……生き残ってしまった人たちの話さ」


風が吹く。


石畳の上を、乾いた砂が転がった。


若い兵士は、もう一度ユーリイを見る。


普通に歩いている。


それが逆に現実味を壊していた。


その時。


通りの角から声が飛ぶ。


「ユーリイ! またサボってるのか!」


振り向く。


パン屋だった。


店先に立つ男が、呆れた顔をしている。


小麦粉の付いた腕。


日に焼けた肌。


少し老けて見える顔。


だが、よく見るとそこまで歳は離れていない。


若い兵士は、その顔を知っていた。


最近通い始めたパン屋。


男が店をやっている珍しい場所だと、同期が教えてくれたのだ。


最初は驚いた。


父親が娼館所属の男娼だった自分にとって、“普通に働いている男”など、ほとんど見たことがなかったからだ。


「サボってまーせーん」


ユーリイが気怠そうに返す。


「王城帰りで疲れてるんだよ。知ってんだろ」


「じゃあ働け」


「横暴だなこの店」


いつものやり取りなのだろう。


通りの女たちが笑う。


若い兵士だけが笑えない。


頭が追いつかない。


あのパン屋の男と。


軍曹が敬礼した男が。


普通に話している。


それだけでも混乱するのに。


軍曹は静かに言った。


「……あの人も、生還者の一人さ」


若い兵士の目が見開かれる。


パン屋の男が、こちらへ気付く。


「あ?」


軍曹を見る。


若い兵士を見る。


そして、何となく察した顔になった。


「……また変な顔してるのがいるな」


軍曹が肩をすくめる。


「見てれば、そのうち分かるようになるさ」


「嫌だねぇ古参は」


パン屋の男——タッカーが苦笑する。


だが。


若い兵士を見る目だけは、少し柔らかかった。


「まあ気にするな」


「パンはちゃんと焼くし、毒も入ってない」


周囲が笑う。


若い兵士だけが、まだ固まっていた。


教本の中の存在だった。


捨て石隊。


不能部隊。


帰らない兵士たち。


その生き残りが。


目の前で笑っている。


しかも。


普通に店を持ち。


街で暮らしている。


その時。


「ユーリイさーん」


軽い声。


小柄な女軍人が通りへ入ってくる。


軍服。


曹長章。


腰の短剣。


歩き方に無駄がない。


若い兵士の背筋が反射的に伸びる。


セリナ・ロスリー曹長。


英雄曹長。


現役教官。


そして。


樹海生還者。


リナはユーリイを見るなり眉をひそめた。


「何すか、その喋り方」


「普通っすけど」


「気持ち悪いっす」


「気持ち悪くないでっす」


即答。


タッカーが吹き出す。


軍曹が咳払いで誤魔化す。


リナは少し笑ってから、ふっと目を細めた。


「……まぁ」


「今こうして普通に歩けてるなら、それで十分っすよ」


ほんの一瞬だけ。


空気が静かになる。


だが、誰も続きを言わない。


言わなくても分かるものが、そこにはあった。


ユーリイが肩をすくめる。


「人を縁起悪いみたいに言わないでください」


「実際、何回か死にかけてるじゃないっすか」


「あなたもでしょうが」


リナが笑う。


タッカーが呆れたように息を吐く。


若い兵士は、その光景を見ていた。


教本の中の伝説。


御伽噺のようだった話。


それが。


今、目の前で生きている。


軍曹が小さく呟く。


「だから軽々しく口にするなって、あの時言っただろ」


若い兵士は何も返せなかった。


ただ。


生還者たちを見ていた。

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