再依頼
朝の下町は、まだ少し冷えていた。
焼き上がったパンを木箱へ詰めながら、ユーリイは欠伸を噛み殺す。
「おい、そっちは配達分だ。食うなよ」
「食わねーよ」
言いながら、一つ摘まむ。
奥で帳簿を見ていたタッカーが顔を上げた。
「あー!言ってるそばから食ってんじゃねー!お前、その揚げパンも狙ってるだろ」
「食っていいのか?」
「駄目だ」
「じゃあ駄目だな」
そのまま齧る。
タッカーが深々と溜息を吐いた。
「三つ目だぞ、その“味見”……俺の新作は食わねーくせに……」
「もう少し美味そうなもん作れよ」
「美味そうだろがよ!」
「ワラビとカニのクリームパンがか?」
「山菜の風味に、カニのコク、カスタードの甘みの——」
「食ってくれる奴いるといいな」
店の隅で子供達が吹き出した。
「ユーリイ兄ちゃんまた怒られてるー!」
「怒られてねぇよ」
「でも毎日怒られてる!」
「タッカーが細けぇだけだ」
「聞こえてるぞ」
軽いやり取り。
だが、店の客達は少し離れたところからその様子を眺めていた。
悪い空気ではない。
ただ。
どこまで踏み込んでいいのか、皆まだ測っている。
元兵士。
しかも、“あの生き残り”。
酒場では武勇伝みたいに語る者もいる。
一方で、妙な噂も消えない。
だから大人達は少し距離を置く。
だが、子供だけは違った。
「ユーリイ兄ちゃん、今日暇?」
「暇じゃねぇ」
「じゃああとで木箱持って!」
「……それは暇とは言わねぇんだよ」
ぶっきらぼうに返しながらも、断らない。
その辺りを、タッカーは横目で見ていた。
朝早く起きて、生地を捏ね、配達をして、昼には荷運びを手伝い、夜には酒場で用心棒まがいのことをする日もある。
軍にいた頃より、よほど忙しい。
だが。
気楽だった。
少なくとも、“期待されて死ぬ”必要はない。
「ユーリイ兄ちゃん!」
店の外から声が飛ぶ。
近所の娘が駆け込んでくる。
「裏通りでまた喧嘩!」
「知らねぇ。憲兵呼べよ」
「止めてよ!」
「何で俺なんだよ……」
「強いから!」
「理由が雑なんだよ」
ぼやきながら立ち上がる。
その時だった。
店の前で、馬車が止まる。
下町には似合わない、磨き上げられた紋章入りの馬車。
店の空気が止まった。
タッカーが露骨に顔をしかめる。
「……面倒臭ぇのが来たな」
扉が開く。
降りてきたのは、王城勤めの女官だった。
年若い女官は一歩店へ入ると周囲を見回し、そしてユーリイを見つけた。
「ユーリイ・シーゲル殿ですね」
「違います」
「本人確認は済んでおります」
「帰っていいですか」
「駄目です」
即答だった。
子供達が面白そうに様子を見ている。
タッカーは既に諦めた顔をしていた。
「……王室絡みなら断る」
空気が少しだけ張る。
女官は小さく息を吸った。
「今回の件は、王宮からの正式命令ではありません」
「へぇ」
「市内で起きている一連の失踪事件について、調査協力を——」
「断る」
食い気味だった。
女官の眉がわずかに動く。
「まだ説明の途中ですが」
「面倒臭い匂いしかしねぇんで」
「……殿下のお名前を出しても?」
一瞬だけ。
本当に、一瞬だけ。
ユーリイの動きが止まった。
「誰の」
「メローペ第四王女殿下です」
沈黙。
子供達も、何となく空気を読んで黙る。
ユーリイは頭を掻いた。
「……試してんのか」
「え?」
「いや、何でもない」
低く吐き捨てる。
軍を辞めた後も、時折こういう話は来ていた。
元英雄。
生還者。
樹海帰り。
便利な肩書きだ。
危険な仕事に放り込むには、ちょうどいい。
そして王城は、特にそれを好む。
「断る」
再び言う。
だが女官は引かなかった。
「命令ではありません」
「同じようなもんだろ」
「違います」
静かだった。
「少なくとも、殿下はそう考えておられます」
その言葉に、ユーリイは少しだけ顔をしかめた。
面倒だ。
本当に面倒だ。
王族という連中は、どうしてこう真っ直ぐ物を言う。
断りづらい。
タッカーが溜息を吐く。
「行ってこい」
「何で」
「その顔して断れるなら大したもんだ」
「嫌な顔しかしてねぇだろ」
「昔より分かりやすい」
舌打ち一つ。
結局、ユーリイは王城へ向かうことになった。
◇
王城は相変わらず息苦しかった。
磨かれた床。
静かな廊下。
規律正しい侍女達。
どれも、自分には似合わない。
案内された部屋で待っていると、扉が開く。
第四王女、メローペが入室する。
軍服ではない。
王族としての正装。
それなのに、妙に現場の空気が抜けない女だった。
「久しいな、ユーリイ」
「……どうも」
素っ気なく返す。
侍女達の空気がわずかに硬くなった。
だがメローペは気にした様子もなく席につく。
「急な呼び出し、すまなかった」
「そう思うなら、帰してもらえると助かるんですけど」
「それは困る」
即答。
少しだけ、昔を思い出す。
この人は、こういう人だった。
ユーリイは壁際へ寄りかかった。
「俺はもう、軍とも王城とも縁を切った身です」
静かな声だった。
「今更、何ですか」
メローペは少しだけ視線を落とす。
その言葉が来ることを、予想していなかった訳ではない。
だが。
実際に口にされると、少しだけ胸に刺さる。
「……そうだな」
短く認める。
「だが、今回の件はお前に頼みたい」
「だから何で俺なんですか」
「信用できるからだ」
間髪入れず返ってきた。
ユーリイは眉をしかめる。
そういうところが、苦手だった。
「それは買い被りってもんですよ」
「そうかもしれん」
否定しない。
だから余計にやりづらい。
少しの沈黙。
やがてメローペが言った。
「ならば、命令ではない」
まっすぐユーリイを見る。
「依頼だ」
侍女達の空気が変わる。
王女が、一介の元兵士へ。
正式に頭を下げる形。
本来なら有り得ない。
ユーリイはしばらく黙っていた。
それから。
「……報酬は?」
侍女の一人が息を呑む。
別の侍女が青ざめた。
だがメローペだけは、一瞬目を丸くした後——ほんの少しだけ笑った。
「相場で払おう」
「前金は」
「必要か?」
「信用問題なんで」
「分かった」
真顔で頷く王女。
侍女達がさらに混乱する。
ユーリイは深く溜息を吐いた。
本当に、面倒な人達だ。
だが。
「……なら、話だけ聞きます」
そう言った時点で。
半分は、もう引き受けているのだと。
自分でも分かっていた。




