猶予
朝。
王城の執務室には、すでに人がいた。
王太子アトラス。
机の上には、いくつもの書類が積まれている。
医療報告。
防疫費用。
軍の再編案。
そして。
第4王女メローペに関する縁組の提案書。
アトラスはそれらを順に読んでいた。
顔色は変わらない。
だが、指が一枚の書類の上で止まる。
養子縁組。
降下。
婚姻。
どの言葉も整っている。
整いすぎている。
「……よく考えるものだ」
小さく呟く。
非難ではない。
感心でもない。
ただの事実だ。
国を安定させるには、理が要る。
血統を守るには、形が要る。
貴族を動かすには、利が要る。
それは分かっている。
分かっているからこそ、厄介だった。
ーー
扉が叩かれる。
「入れ」
文官が入ってくる。
深く一礼する。
「メローペ殿下の件でございます」
「知っている」
アトラスは書類から目を離さない。
「各家より、早期のご決断を望む声が増えております」
「そうだろうな」
「特に侯爵家からは、弟君の迎え入れについて」
「急かしているか」
「はい」
文官は言葉を選ぶ。
「表向きは、殿下の将来を案じてのことと」
「表向きはな」
短く返す。
文官は黙る。
アトラスはようやく顔を上げた。
「メローペは何と言っている」
「明確な返答は、まだ」
「そうか」
怒りはない。
失望もない。
むしろ、わずかに息を吐いた。
「ならば急がせるな」
文官が顔を上げる。
「よろしいのですか」
「よろしいかどうかではない」
アトラスは書類を机に置く。
「急がせても、良い返答にはならん」
「しかし」
「分かっている」
声は荒げない。
それだけで、文官の言葉は止まる。
「国には形が要る」
「はい」
「王家には役目がある」
「はい」
「だが、役目だけで人は立てん」
文官は答えない。
アトラスは淡々と続ける。
「姉上は死んだ」
少しだけ空気が重くなる。
「父もいない」
「メローペは帰った。生きて帰った」
「ならば、すぐに次の形へ押し込めばよいという話ではない」
文官は深く頭を下げる。
「では、どのように」
「猶予を与える」
「猶予、でございますか」
「ああ」
アトラスはもう一度、提案書を見る。
「各家には、検討中と伝えろ」
「期限は」
「こちらで決める」
「侯爵家が納得するとは」
「納得させる必要はない」
静かな声。
「待たせればよい」
文官は一瞬だけ黙った。
「承知いたしました」
ーー
文官が下がった後、部屋は静かになった。
アトラスは椅子に深く座る。
机の端に、別の報告書がある。
王宮を出た男について。
ユーリイ・シーゲル。
元准尉。
騎士爵。
市井にて生活。
問題行動なし。
ただし、先日、誘拐未遂犯十名を捕縛。
憲兵詰所へ引き渡し済み。
アトラスはしばらくその文字を見た。
「……相変わらずだな」
呆れたように言う。
だが、口元はわずかに緩んでいる。
あの男は残らなかった。
軍にも、王宮にも。
残る道はあった。
だが選ばなかった。
それを愚かとは思わない。
むしろ。
羨ましいとさえ思う。
「自分の場所を選んだか」
小さな声。
誰に聞かせるものでもない。
ーー
再び扉が叩かれる。
「入れ」
今度は近習だった。
「イオネ陛下より、午後の謁見についてご確認をとのことです」
「分かった」
近習は頭を下げる。
だが、すぐには下がらない。
「他に何か」
「メローペ殿下が、昨夜遅くまで灯をつけておられたとの報告が」
「……そうか」
アトラスは目を伏せる。
少しだけ間。
「体調は」
「大きな変調はございません」
「ならばよい」
それだけ言う。
近習は下がる。
また静けさが戻る。
アトラスは立ち上がる。
窓辺へ向かう。
王城の外に、街が見える。
そこにユーリイがいる。
城の中にはメローペがいる。
一人は選んだ。
一人はまだ選べない。
「さて」
誰にともなく言う。
「どこまで待てるか」
それは貴族たちへの言葉でもあり。
王家への言葉でもあり。
自分自身への言葉でもあった。
机に戻る。
新しい紙を一枚取る。
短く書く。
第4王女メローペの件。
決定を急がせぬこと。
諸家への返答は王太子預かりとする。
署名。
アトラス・アデス。
筆を置く。
それだけで、少しだけ時間が生まれる。
選択には、時間が要る。
それを知っている者は少ない。
だが。
今は、それでいい。
メローペが選ぶまで。
少なくとも。
彼女が、自分で選ぼうとするまでは。




