黒い霧の忘れ形見
王国東部、国境に近い町バルテカ
町の外れに、小さな孤児院があった
古びた木造の二階建て
ところどころ補修された壁に、何度も塗り直された窓枠
庭には小さな畑があり、洗濯物が風に揺れている
その庭先で、数人の少女たちが歓声を上げていた
「ディタ姉ちゃん!」
「はいはい、どうしたの?」
駆け寄ってきた少女が、小さな手を差し出した
その手には、泥のついた芋が一つ握られている
「採れた!」
「まあ、大きいじゃない」
「これ、今日のご飯?」
「そうね。でも、これ一つじゃみんなのお腹はいっぱいにならないわよ」
「じゃあ、もっと採ってくる!」
少女は元気よく畑へ戻っていった
その後ろ姿を見送りながら、ディタ・バプカは小さく笑った
年のころ十五歳
この国ではすでに成人として扱われる年齢だが、顔立ちにはまだ少女らしい幼さが残っている
整った目鼻立ちと、丁寧な物腰
育ちの良さを感じさせる少女だった
彼女は、この小さな孤児院を切り盛りしていた
もちろん、町の人々の助けもある
近所の農家は余った野菜を持ってきてくれるし、パン屋は売れ残ったパンを分けてくれる
時には、町の女たちが子供の服を繕いに来てくれることもあった
「ディタちゃん、いるかい?」
門の向こうから声がした
振り返ると、籠を抱えた年配の女性が立っていた
「あら、マーサさん。こんにちは」
「今日は少しだけど、卵を持ってきたよ」
「いつもありがとうございます」
「いいんだよ。子供たちに食べさせておやり」
女性は籠を手渡すと、庭で遊ぶ少女たちを眺めた
「また増えたのかい?」
「ええ、先週一人」
「そうかい……」
女性の表情が曇った
昨年の冷夏と作物の不作は、この地域にも深い傷を残していた
食べるものが足りない
それは、貧しい家にとって、時に残酷な決断を迫る理由となる
「今年は少しでも収穫が戻るといいんだけどねえ」
「本当に」
ディタは静かに頷いた
女性が帰った後、ディタは籠を抱えて建物へ戻った
部屋の隅では、小さな女の子が椅子に座っていた
四つか五つくらいだろうか
ほかの子供たちが庭で遊んでいるのに、その子だけは窓の外を眺めている
「チェルシー」
呼びかけると、少女が顔を上げた
「お外で遊ばない?」
少女は首を横に振った
「……お母さん、来る?」
ディタは一瞬、言葉に詰まった
チェルシーがこの孤児院へ来たのは、一週間前のことだった
村では食料が足りず、幼い彼女は家族から置き去りにされた
村の大人が町まで連れてきて、この孤児院に預けていったのだ
「……今日は、私と一緒にお昼ご飯を作りましょうか」
チェルシーは答えなかった
ただ、ディタの服の裾を小さな手で握った
「うん」
その声は、消えてしまいそうなほど小さかった
ディタは少女の頭を優しく撫でた
***
夕方
庭で遊んでいた少女たちが、一斉に門の方へ走り出した
「帰ってきた!」
「お兄ちゃんたちだ!」
門の向こうに、三つの黒い山高帽が見えた
黒い服をまとった三人の男
しかし、その姿を初めて見た者は、まず男だとは思わないだろう
三人とも、驚くほど整った顔立ちをしていた
長い黒髪を背中に流した一人には、頬に一本の傷がある
短い黒髪の一人は、涼しげな目元をしていた
もう一人は、顎のあたりで切り揃えた黒髪を揺らしている
「おかえり!」
「お土産は?」
少女たちが三人を取り囲んだ
「おいおい、まずはお帰りなさいだろう?」
長髪の男が笑いながら答えた
「おかえりなさい!」
「よし、いい子だ」
短髪の男が小さな包みを取り出した
「今日は焼き菓子だ。ただし、夕飯の後だぞ」
「ええー!」
「文句を言うなら持って帰る」
「食べる!」
少女たちの歓声が響いた
その様子を、玄関先からディタが見つめていた
「お帰りなさい」
三人が顔を上げた
「ただいま、お嬢」
「お嬢、留守中は何もなかったかい?」
「ええ。皆さんのおかげで、何事もなく」
「そいつは良かった」
ディタは三人の顔を順番に見た
そして、わずかに眉を寄せた
「……怪我は?」
「大丈夫だよ」
「本当に?」
「本当さ」
そう答えた男の袖口には、小さな裂け目があった
ディタはそれを見逃さなかった
しかし、少女たちの前では何も言わなかった
***
夜
夕食を終えた子供たちは、それぞれの寝台に入っていた
昼間は元気に走り回っていた子供たちも、今は静かな寝息を立てている
チェルシーも眠っていた
その頬には、涙の跡が残っていた
眠る直前まで、母親を呼んでいたのだ
ディタは毛布を掛け直し、そっと部屋を出た
廊下の先から、金属の触れ合う小さな音が聞こえてくる
食堂では、三人が武器の手入れをしていた
長柄の刃物
分解された銃
そして、いくつかの小さな容器
子供たちが起きている間には、決して見せないものだった
「先日の商隊、護衛が増えていたな」
「以前より五割は多かった」
「次も同じようにいくとは限らないね」
「連携を見直す必要がある」
三人は静かに話し合っていた
その声に、ディタが割って入った
「……また、行くんですか?」
三人の手が止まった
「お嬢」
「もう、十分でしょう?」
ディタは食卓の前に立った
「孤児院のお金は、まだあります。食料だって、町の皆さんが助けてくださっています」
誰も答えなかった
「これ以上、危険なことをしなくても……」
「お嬢」
長髪の男が静かに口を開いた
「それとこれとは、別の話なんだ」
「別じゃありません!」
ディタの声が、少しだけ大きくなった
すぐに子供たちの寝室を気にして、口元を押さえる
「……別じゃ、ありません」
今度は小さな声だった
「皆さんまでいなくなったら、私は……」
その先は言葉にならなかった
短髪の男が、分解した銃を布の上に置いた
「お嬢。俺たちは、あの日のことを忘れられない」
「分かっています」
「いや、分かっていてもらうだけじゃ済まないんだ」
もう一人が低い声で続けた
「あいつらは、まだ生きている」
食堂に沈黙が落ちた
ディタは俯いた
三人が何を求めているのか
それを、彼女は誰よりもよく知っていた
***
かつて、この王国の東部には、黒い霧盗賊団と呼ばれる一団が存在した
一族の者たちは、いずれも並外れた腕を持つ戦士だった
その頭目が、カルラ・バプカ
ディタの母親である
カルラは盗賊団の頭目であると同時に、一族のハースでもあった
ハース
家族が集う炉
一族の中心となり、皆が帰る場所を守る者
それがカルラだった
黒い霧盗賊団は、決して善良な集団ではなかった
商隊を襲い、金品を奪い、時には人を殺した
王国の法に照らせば、紛れもない犯罪者たちである
しかし、彼女たちには後ろ盾があった
王国に利益をもたらす仕事も引き受け、その見返りに一定の庇護を受けていた
ただ、彼女たちにも譲れない一線があった
どれほどの報酬を積まれようとも、引き受けない仕事があったのだ
そして、その拒絶が後ろ盾の怒りを買った
やがて黒い霧盗賊団は、後ろ盾の汚職の罪を着せられ、討伐された
一族は壊滅した
カルラ・バプカも、二度と帰ってこなかった
残されたのは、まだ幼かった娘と、三人の男たちだった
三人もまた、カルラに拾われた者たちである
かつて、カーヴと呼ばれる男娼宿へ商品として運ばれていた彼らは、その途中で黒い霧盗賊団に馬車を襲われた
盗賊たちが期待していた獲物とは違った
しかし、カルラは三人を売らなかった
やがて彼らは、一族の中で生きる術を学んだ
武器の扱いも
戦い方も
仲間と共に生き延びる方法も
そして今、彼らは黒い山高帽をかぶり、かつてカルラたちを裏切った者たちを追っていた
***
「母さんは……」
ディタが、ぽつりと呟いた
「母さんは、皆さんがこんなことを続けるのを望んでいるでしょうか」
三人は答えなかった
「母さんがいなくなって、私には皆さんしかいないんです」
長髪の男が目を伏せた
「お嬢には、俺たちがいる」
「だから、その皆さんに生きていてほしいんです」
ディタの目から、涙が一粒こぼれた
「チェルシーも、ほかの子供たちも、皆さんが帰ってくるのを楽しみにしているんです」
「……」
「もう、お金はいりません。何も持って帰ってこなくていいんです」
彼女は三人を見つめた
「ただ、無事に帰ってきてください」
短髪の男が唇を噛んだ
もう一人は、手にしていた道具を静かに置いた
長髪の男が立ち上がり、ディタの前に膝をついた
「お嬢」
その声は優しかった
「俺たちは、あんたを守る」
「だったら……」
「でも、あいつらだけは許せない」
優しかった目に、冷たい光が宿った
「あいつらが何をしたのか、俺たちは知っている」
短髪の男が続けた
「罪を全部押し付けて、カルラたちを殺した」
「何事もなかったように、今も商売を続けている」
三人目が静かに言った
「地獄に落ちてもらわなきゃ、割に合わない」
ディタは何も言えなかった
三人の気持ちが分からないわけではない
彼女自身も、母親を奪った者たちを許してはいなかった
しかし、もう誰も失いたくなかった
それだけだった
「……お嬢」
長髪の男が立ち上がった
「心配をかけて、すまない」
ディタは首を横に振った
「謝ってほしいんじゃありません」
三人は黙っていた
「お願いですから……」
その声は、最後まで続かなかった
***
深夜
孤児院の灯りが、一つずつ消えていった
子供たちは眠っている
ディタも、ようやく自分の部屋へ戻った
食堂には、まだ三人の姿があった
磨き終えた武器が、布の上に並んでいる
「……泣かせちまったな」
「ああ」
「分かっているんだけどね」
誰も、その先を口にしなかった
やがて長髪の男が、窓の外へ目を向けた
夜の町は静かだった
この孤児院には、彼らを待つ者がいる
暖かな食事があり
笑い声があり
帰ってくる場所がある
それでも、彼らの胸の奥には、消えない憎しみがあった
「次は、いつだ?」
短髪の男が尋ねた
長髪の男は、しばらく答えなかった
やがて、静かに口を開いた
「……もう少し、調べてからだ」
三人は再び、武器を手に取った
窓の外では、夜風が庭の木々を揺らしていた
その向こうで、孤児院の子供たちは何も知らずに眠っている
黒い霧盗賊団の名は、すでに過去のものとなった
しかし、その復讐はまだ終わっていなかった




