麦の値段
「小麦が上がっている?」
「ええ、目立って小麦相場が上昇しています。それを追うように、大豆の相場も上がり始めました」
王宮の執務室
机を挟んで向かい合っているのは、王太子アトラス・アデスと、国務大臣イレーヌ・ブーブ伯爵だった
机の上には、各地から届けられた穀物の取引記録と、農作物の収穫量をまとめた報告書が広げられている
アトラスは、その一枚を手に取った
「来るべきものが来たか」
「昨年の冷夏と蝗害の影響が出るのが、想像以上に速いです」
「うーむむむ……」
アトラスは眉間に皺を寄せた
昨年、王国の一部地域では低温と日照不足が続き、農作物の生育に大きな影響が出ていた
さらに、別の地域では蝗害が発生し、収穫前の作物が食い荒らされた
それでも、昨年の収穫が終わった直後には、ここまで急激な価格上昇を予想していなかった
「今年の初めに陛下からお借りした資料を基に、考え得る対策は立てましたが……」
イレーヌは言葉を切った
「間に合うかどうか」
「各領地の対応は?」
「進めております。しかし、すべての貴族が協力的というわけではありません」
「だろうな」
「作付けの変更一つを取っても、従来の方法を変えることに抵抗する者がいます。領地によって事情も異なりますし、命令を出せば済むという話でもありません」
アトラスは報告書を机に戻した
「今年の気候が、去年より良いことを願うしかないな」
「……はい」
それは、王太子として望ましい言葉ではなかったかもしれない
だが、いかに王家が力を尽くそうとも、天候まで変えることはできない
昨年失われた収穫を、今から取り戻すこともできない
今年の作物が実るまで、まだ時間がある
そして、その間にも人々は食べなければならなかった
二人の間には、重い空気が流れていた
◇
「麦が高いんだよ」
タッカーは、買い付けてきた小麦の袋を床に下ろした
パン屋の裏手
ユーリイは、その袋を見ながら尋ねた
「どれくらいだ?」
「去年の今頃の一・五倍だ」
「そんなにか?」
「そんなにだ」
タッカーは大きく息を吐いた
「しかも、まだ上がるかもしれねえ」
「パンの値段も上げるのか?」
「上げなきゃ赤字だ。でも、簡単に上げられるかよ」
「そうだな……」
パンは、王都の人々にとって日々の食事に欠かせないものだった
裕福な家なら、多少値段が上がっても困ることはないだろう
だが、毎日の食費を切り詰めている家庭にとっては違う
「俺たちや、孤児院は何とかなるかもしれない。しかし、貧しい家庭だと厳しいかもしれないな」
「ああ」
タッカーは頷いた
「特に子供の多い家はな」
「上がっているのは麦だけか?」
「いや、食い物全般だ。大豆も野菜も、少しずつ上がってる」
「ほかには?」
「薪の値段も上がりっぱなしだ」
「薪までか」
「去年の冬が長かっただろ? 蓄えが減ったところに、今年も寒くなるんじゃないかって話が出てる」
ユーリイは腕を組んだ
食料だけではない
冬を越すには、暖を取るための薪も必要になる
食べ物があっても、煮炊きができなければ困る
寒さが厳しくなれば、暖房に使う薪も増える
「トリーたちには、薪の回収を急がせよう」
「そうだな」
「もちろん、近場の安全なところだけだ。足りない分は俺たちで何とかする」
「分かってるよ」
タッカーは小麦の袋を持ち上げた
「それより、孤児院の畑はどうなってる?」
「そろそろ収穫できるものもあるはずだ」
「じゃあ、様子を見に行くか」
「ああ」
ユーリイは頷いた
「院長先生にも話しておきたい」
◇
「院長、今日も持ってきた」
孤児院を訪れたユーリイが、食料の入った籠を差し出した
「おや、またこんなに」
院長は杖をつきながら近づいてきた
右足の義足が、床を小さく鳴らす
「いつも悪いね。あんたたちが食べ物を持ってきてくれるおかげで、うちはずいぶん助かっているよ。子供たちも喜んでいるしね」
「余った材料で作ったものもありますから」
タッカーが笑った
「それに、今日は畑の様子も見たいんだ」
「そうかい。それなら、ちょうどいい」
院長は二人を裏庭へ案内した
「でも、最近はどうですか?」
ユーリイが尋ねた
「何がだい?」
「食料のことです。街でもずいぶん値段が上がっているようですから」
「ああ……」
院長の表情が曇った
「あまり良くないね。食べ物全般で値上がりが続いているよ」
「やはり、そうですか」
「去年のような気候だと、今年も冬が早く来るかもしれないしね」
院長は空を見上げた
雲が流れている
まだ寒さを心配する季節ではなかったが、昨年のことを思い出せば楽観はできなかった
「食糧生産と薪の確保を急いだ方がいいかもしれないな」
ユーリイが言った
「そうだね」
院長は頷いた
「幸い、ここは王都でも端の端だから、こうしてちょっとした畑もある」
裏庭には、アーダポルとマイスが植えられていた
さらに、その周囲では王国で昔から作られている野菜も育っている
二年前までは、ほとんど使われていなかった土地だった
「最初にあんたたちが種芋や種を持ってきてくれなかったら、今頃どうなっていたことか」
「育てたのは院長先生と子供たちですよ」
「それでも、きっかけを作ってくれたのはあんたたちさ」
院長はそう言って、畑の奥に目を向けた
そこには、タッカーの背丈ほどに育ったエイクルの木があった
まだ若い木だったが、枝を広げ、青々とした葉を茂らせている
「こいつも大きくなったな」
タッカーが幹に手を当てた
「二年前は小さな苗だったのにねえ」
「もう少し育てば、もっと実をつけるようになるだろうな」
「楽しみだよ」
院長は微笑んだ
「子供たちも、自分たちで育てたものを食べられるのが嬉しいらしくてね」
畑の向こうでは、トリーたちが野菜の手入れをしていた
以前は、食べ物を手に入れるために危険なことをしていた少女が、今では仲間たちと一緒に作物を育てている
ユーリイは、その姿をしばらく眺めていた
「アーダポルは、今年も順調そうだな」
タッカーが葉を持ち上げながら言った
「ああ」
「マイスも悪くない。天気さえ崩れなきゃ、去年と同じくらいは採れるだろう」
「それは助かるねえ」
院長が嬉しそうに答えた
「ほかの野菜も増やしたんですね」
ユーリイが尋ねる
「ああ。あんたたちに教わってから、少しずつね」
院長は畑を見渡した
「全部を買っていた頃に比べれば、ずいぶん違うよ」
「そうですね」
ユーリイは頷いた
確かに、この孤児院の状況は改善していた
食卓に並ぶ料理は増えた
子供たちが腹を空かせる日も減った
余裕のある時には、収穫した作物を保存することもできるようになった
だが、それでも限界はある
畑の広さは決まっている
収穫できる量にも限りがある
この孤児院の子供たちを食べさせるだけなら、何とかなるかもしれない
しかし、周辺には同じように暮らしの苦しい家庭がいくつもあった
小さな子供を抱えた家
働き手を失った家
病人を抱え、十分な収入を得られない家
小麦の値段が一・五倍になれば、それまで何とか暮らしていた家庭でも、食事を減らさなければならなくなる
それがさらに上がったら
冬が早く来たら
薪まで買えなくなったら
ユーリイは畑の端に立ち、考え込んだ
「どうした?」
タッカーが声を掛けた
「いや……」
ユーリイは周囲の家々を見た
「ここだけじゃないんだよな」
「何が?」
「食べ物に困っている人たちだよ」
タッカーは黙った
「この孤児院は、畑があったから何とかなった。でも、ほかの家はどうする?」
「……そうだな」
「種芋や種を渡したところで、育てる土地がなければ意味がない」
「土地があっても、すぐに収穫できるわけじゃねえしな」
「ああ」
ユーリイはエイクルの木を見上げた
二年前に植えた小さな苗は、今ではタッカーの背丈ほどに育っている
だが、木が育つには時間が必要だった
アーダポルもマイスも、植えた翌日に収穫できるわけではない
「何とかならないかな」
ユーリイが呟いた
「何とかって?」
「この辺りの人たちが、少なくとも飢えずに済むくらいには」
タッカーは腕を組んだ
「そりゃ、できるならそうしたいけどよ」
「ああ」
「俺たちの畑だって、そんなに広くないぞ」
「分かってる」
「パン屋の材料も高くなってる。今までみたいに余ったものを持ってくるのも、難しくなるかもしれねえ」
「それも分かってる」
二人は黙り込んだ
考えられることは、すでにいくつも試していた
畑を作る
種を分ける
育て方を教える
余った食べ物を持ち寄る
だが、それだけでは足りない
「……難しいな」
タッカーが言った
「ああ」
ユーリイは頷いた
院長は、そんな二人を黙って見ていた
やがて、静かに口を開いた
「あんたたちは、もう十分やってくれているよ」
「でも……」
「この子たちが毎日腹いっぱい食べられるようになった。それだけでも、あたしには夢みたいな話なんだ」
院長は畑を見渡した
「だからって、ほかの人たちがどうなってもいいとは思わないけどね」
「ええ」
「ただ、何でも一度にできるわけじゃないさ」
ユーリイは返事をしなかった
院長の言うことは分かっている
自分たちにできることには限りがある
それでも、目の前で誰かが飢えていると知りながら、何もしないでいることは難しかった
「ユーリイ!」
畑の向こうからトリーが呼んだ
「こっちのマイス、もう採っていい?」
「ああ、ちょっと待ってくれ」
タッカーが答えた
「俺が見てやる!」
「早くー!」
「分かったって!」
タッカーは子供たちの方へ歩いていった
ユーリイも、その後を追おうとして足を止めた
もう一度、畑を見渡す
アーダポル
マイス
王国の野菜
そして、若いエイクルの木
二年前には、何もなかった場所だった
今は、確かに食べ物が育っている
それでも
これから訪れるかもしれない食糧危機を前に、今以上に何ができるのか
ユーリイには、まだ答えが見つからなかった




