孤児院
今日は週の二日目
ユーリイとタッカーは、いつものように王都の下町にある孤児院を訪れていた
二人が持ってきた籠には、ラスクと簡単な焼き菓子が詰まっている
そして今日は、孤児院の畑で収穫したアーダポルとマイスを使って、タッカーが料理を作る予定だった
「二人とも、いつもすまないね」
杖をついた老婆が、二人を出迎えた
右足をわずかに引きずりながら歩くその姿は、どこにでもいる年老いた女性に見える
だが、ユーリイは知っていた
この老婆が、見た目どおりの人物ではないことを
「気にしないでください、院長先生」
ユーリイは籠を持ち上げた
「今日は焼き菓子も持ってきました」
「おや、またかい。子供たちが喜ぶよ」
「それと、今日はこいつが料理をするそうです」
「おい、こいつって何だよ」
タッカーが横から口を挟んだ
「料理人様と呼べ」
「はいはい、料理人様」
「まったく、調子のいい奴だ」
院長は二人のやり取りを聞きながら、しわの刻まれた顔をほころばせた
「今日は畑のアーダポルとマイスを使うんだったね」
「ああ、マイスはちょうど食べ頃だろ?」
「子供たちが朝から楽しみにしているよ」
「そいつは腕の振るい甲斐があるな」
タッカーは満足そうに頷いた
孤児院の裏手には、小さな菜園がある
以前は雑草の目立つ土地だったが、今ではアーダポルの葉が茂り、その隣ではマイスが背を伸ばしていた
二人がこの孤児院に関わるようになったのは、二年前のことだった
◇
その日、ユーリイは仕事を終えて王都の下町を歩いていた
表通りから一本外れた路地で、女たちの怒鳴り声が聞こえた
「こっちだ!」
「逃がすんじゃないよ!」
続いて、短い悲鳴
何かを打ちつける鈍い音がした
ユーリイは足を速めた
路地の奥
五人の女が、一人の少女を取り囲んでいた
少女は地面に倒れ、身体を丸めている
その背中を女が蹴り、別の女が棒を振り下ろした
「おい!待て!」
ユーリイの声に、女たちが振り返った
「あん?邪魔すんじゃないよ」
先頭の女が言いかけ、目を見開いた
「男……?」
「何があった?」
ユーリイは少女を見た
頬が腫れ、口元には血がにじんでいる
それでも少女は、何かを胸に抱えるようにして離さなかった
「こいつがうちの商品を盗んで逃げようとしたんだよ」
少女の手には、潰れかけた食べ物が握られていた
「そうか」
ユーリイは短く答えた
「俺がその金を払う」
「そういうことじゃねえんだよ!」
女が声を荒らげた
「こういう奴は徹底的にしつけないと、またやるんだよ!」
「じゃあ、代金の二倍払う」
「五倍だ!」
女はユーリイを睨み返した
「五倍払うなら許してやるよ」
「おい、そこまでしなくても……」
女の一人が口を挟んだが、先頭の女は聞かなかった
その横で、別の女が倒れている少女の腹を蹴った
「ぐっ!」
少女の身体が折れ曲がる
ユーリイの表情が消えた
「分かった」
低い声だった
「五倍払う」
懐から財布を取り出す
差し出した金額は、その日一日働いて得た稼ぎのほぼすべてだった
女は金を数え、ようやく満足そうに笑った
「最初からそうすりゃよかったんだよ」
「もういいな?」
「ああ、好きにしな」
女たちが立ち去ろうとする
その一人が振り返った
「色男さん」
「何だ?」
「そんなことやっても、何の解決にもならないよ」
「……」
ユーリイは答えなかった
女たちの姿が路地の向こうに消えるのを待ち、少女の前にしゃがみ込んだ
「立てるか?」
少女は警戒した目でユーリイを見上げた
「……平気」
「そうは見えないけどな」
「平気だってば」
立ち上がろうとして、膝が折れた
ユーリイは手を伸ばしたが、少女はその手を振り払った
「触らないで!」
「分かった、触らない」
少女は壁に手をつき、何とか立ち上がった
「名前は?」
「……トリー」
「俺はユーリイ」
「知ってる」
「そうか」
ユーリイは少し笑った
「家はどこだ?」
「孤児院」
「送っていく」
「いい!」
「その足で?」
「帰れる!」
トリーは歩き始めた
三歩ほど進んで、壁に寄りかかる
ユーリイは何も言わず、その場に立っていた
しばらくして、トリーが振り返った
「……何でついてくるの?」
「帰り道が同じかもしれないだろ」
「知らないくせに」
「じゃあ、教えてくれ」
トリーは唇を尖らせた
「……お金、払ってもらったし」
「ん?」
「だから、途中までなら一緒に来てもいい」
「そいつはどうも」
二人は並んで歩き始めた
トリーは最後まで、手に握った食べ物を離さなかった
◇
孤児院は、下町のさらに奥まった場所にあった
古びた建物だったが、入口の周囲はきれいに掃き清められていた
その入口に、一人の老婆が立っていた
杖をつき、右足を少し引きずっている
「院長!」
トリーが声を上げた
老婆がこちらを向く
その視線がトリーの腫れた顔に止まった
次の瞬間
老婆が踏み込んだ
「っ!」
杖の先端が、ユーリイの喉元を狙って突き出される
ユーリイは身体をひねり、その一撃を躱した
続く打突をかわしながら、素早く距離を取る
「おいおい!ひどいじゃねえか!」
「うちの子に手を出して、無事で済むと思うなよ!」
老婆は杖を構えた
右足をかばっているはずなのに、上体はまったく揺れていない
ユーリイはその構えを見て、目を細めた
素人ではない
それも、相当な使い手だ
「待てって!話を聞け!」
「言い訳なら後で聞いてやる!」
「院長!」
二人の間にトリーが飛び込んだ
「違うんだってば!」
「トリー、下がってな!」
「この人じゃないの!」
老婆の動きが止まった
「……何?」
「この人、助けてくれたんだよ!」
「助けた?」
「だから!違うって言ってるでしょ!」
老婆はしばらくトリーを見つめ、それからユーリイに視線を移した
「……そうかい」
杖を地面につく
「悪かったね」
「いや、まあ……」
ユーリイは息を吐いた
「元気な婆さんだな」
「婆さんで悪かったね」
「褒めてるんだよ」
「ふん」
老婆は鼻を鳴らした
「それで、何があった?」
トリーが黙り込んだ
ユーリイは口を開いた
「路地で揉め事に巻き込まれていたんです」
「揉め事?」
「ええ、俺が通りかかった時には、もう怪我をしていて」
「……そうかい」
老婆はトリーの手元を見た
潰れた食べ物
腫れた頬
汚れた服
それだけで、何が起きたのかおおよその見当はついた
この娘が、自分の腹を満たすために盗みを働くような子ではないことも知っている
そして、そういう無茶をする理由があることも
「トリー」
「……何?」
「中に入りな」
「でも」
「傷を見せな。話はそれからだ」
トリーは小さく頷いた
老婆はユーリイに向き直った
「世話になったね」
「いや、別に」
「名前を聞いてもいいかい?」
「ユーリイ・シーゲルです」
老婆の眉がわずかに動いた
「……シーゲル?」
「ええ」
「そうかい」
それ以上は聞かなかった
ただ、先ほどの身のこなしを思い出したように、ユーリイの足元へ目を落とした
「妙な男だね、あんた」
「よく言われます」
「だろうね」
老婆は初めて笑った
◇
数日後
ユーリイはタッカーを連れて、再び孤児院を訪れた
「で、何で俺まで連れてきたんだ?」
「食い物のことなら、お前の方が詳しいだろ」
「そりゃそうだが」
「話を聞いてから決めてくれ」
院長に案内され、二人は建物の中を見て回った
子供たちは元気だった
ただ、食卓は質素だった
古い鍋
使い込まれた食器
小さく切り分けられたパン
タッカーは何も言わず、それらを見ていた
この孤児院は、特定の宗教組織とは距離を置いて運営されていた
そのため、教会などからの定期的な支援はない
大きな後援者もおらず、わずかな寄付金と院長自身の年金で、何とか日々をしのいでいた
「年金まで使ってるんですか?」
ユーリイが尋ねた
「ほかに使い道もないからね」
院長はあっさり答えた
「年寄り一人、食っていくだけなら大した金も要らないさ」
「そういう問題じゃないでしょう」
「そういう問題なんだよ」
老婆は笑った
「この子たちが腹を空かせてるのに、あたしだけうまいものを食べるわけにもいかないだろ?」
タッカーは窓の外を見た
「裏の土地、使ってるのか?」
「ん?」
「あそこだよ。草が生えてるところ」
「昔は少し野菜を作ってたんだけどね。なかなか手が回らなくて」
「日当たりは悪くないな」
「何を考えてるんだい?」
タッカーは腕を組んだ
「畑にしよう」
「畑?」
「ああ。アーダポルとマイスを育てる」
院長は首を傾げた
「聞いたことのない作物だね」
「最近、少しずつ広まり始めた作物だ。俺の菜園でも育ててる」
「難しいのかい?」
「いや。ちゃんと手入れすりゃ、ここでも十分育つ」
タッカーは裏庭に出た
土を手に取り、指で崩す
「少し手を入れた方がいいな。でも、何とかなる」
「種は高いんじゃないのかい?」
「俺が持ってくる」
「そんなわけにはいかないよ」
「じゃあ、収穫したら少し分けてくれ」
院長が目を瞬いた
「……それだけでいいのかい?」
「うまく育ったらな」
タッカーは笑った
「まずは腹いっぱい食えるようになってからの話だ」
ユーリイは隣で頷いた
「俺も畑仕事なら手伝えますよ」
「お前は雑草抜きだな」
「何で俺だけ?」
「料理人様の指示だ」
「まだ言ってるのかよ」
院長は二人を見比べた
そして、深く頭を下げた
「……ありがとう」
「まだ何もできてないぜ」
タッカーは少し困ったように頭をかいた
「礼は、ちゃんと収穫できてからにしてくれ」
◇
それから、孤児院の裏庭は少しずつ姿を変えた
子供たちも畑仕事を手伝った
土を耕し、種を植え、水を運ぶ
タッカーは時折様子を見に来て、育て方を教えた
ユーリイも仕事の合間に顔を出した
初めての収穫では、予想していたほどの量は採れなかった
それでも、子供たちが自分たちの手で育てたアーダポルとマイスは、食卓に新しい料理を増やしてくれた
翌年には畑の扱いにも慣れ、収穫量が増えた
アーダポルは煮たり焼いたりして食べられる
マイスは茹でるだけでも甘く、子供たちに人気だった
乾燥させれば、どちらも食料の備えになる
孤児院の食糧事情は、以前に比べて大きく改善していた
トリーは、最初こそ二人を遠巻きに見ていたが、やがて自分から話しかけるようになった
ある日
「ねえ、ユーリイ」
「何だ?」
「何か仕事ない?」
「仕事?」
「うん。いつももらってばっかりじゃ嫌だし」
ユーリイは少し考えた
「じゃあ、頼みたいことがある」
「何?」
「この辺りの道を教えてくれないか?」
「道?」
「ああ。俺はまだ、この辺りの細い路地を全部覚えてないんだ」
トリーの顔が明るくなった
「そんなの簡単だよ!」
「助かる」
「どこに行きたいの?」
ユーリイは紙を広げた
「この場所なんだけど」
「あ、それならこっちから行く方が早いよ!」
トリーは得意げに指を動かした
ほかの子供たちも集まってくる
「そこ、荷車が通れないよ!」
「でも歩きなら近道がある!」
「雨の日は水が溜まるから駄目!」
ユーリイは一つ一つ聞きながら、紙に書き込んだ
「なるほどな。こりゃ助かった」
「本当?」
「ああ。仕事が早く済みそうだ」
ユーリイは持ってきた小さな包みを差し出した
「情報料だ」
中には焼き菓子が入っていた
「えっ、いいの?」
「仕事をしてもらったんだからな」
「でも、これくらい……」
「俺が知らないことを教えてくれたんだ。十分な仕事だよ」
トリーは包みを受け取った
「……じゃあ、また何かあったら言ってね!」
「ああ、頼む」
それから、子供たちは時々ユーリイの仕事を手伝うようになった
道を教える
店の場所を調べる
近所で聞いた話を伝える
どれも、普段の暮らしの中でできることばかりだった
ある時、トリーが尋ねた
「ねえ、あたしたちが直接見に行ってこようか?」
「いや、そこは俺が行く」
「でも、その方が早いよ?」
「危ない場所だからな」
「……あたしたちだって、結構すばしっこいんだよ?」
「知ってる」
ユーリイは笑った
「だから、こっちの仕事を頼んでるんだ」
「むう……」
「十分助かってるよ」
トリーはしばらく不満そうな顔をしていたが、やがて頷いた
「……分かった」
「頼んだぞ」
「うん!」
ユーリイは子供たちに仕事を頼んだ
だが、危険な場所へ向かわせることは決してなかった
その先は、自分の仕事だった
◇
二年が過ぎた
孤児院の畑には、毎年アーダポルとマイスが実るようになっていた
もちろん、畑だけですべての食料を賄えるわけではない
だが、以前より食卓に並ぶ料理が増え、子供たちの顔色も良くなった
ユーリイとタッカーは、王都の下町にあるほかの孤児院にも足を運ぶようになった
大きな後ろ盾を持たず、食料の確保に苦労している施設を訪ね、種子と栽培方法を伝えた
すべての孤児院を助けられるわけではない
土地がない場所もある
働き手が足りない場所もある
二人が持ち込める種子にも限りがあった
それでも、できることから始めた
やがて、その活動にはメローペも力を貸すことになる
だが、それはまだ先の話だった
今は、わずか二人が自分たちの手の届く範囲で続けている、小さな取り組みにすぎない
◇
「おーい!タッカー!」
裏庭から子供たちの声がした
「マイス、採っていい?」
「待て待て!俺が見る!」
タッカーは袖をまくり、外へ出ていった
ユーリイは持ってきた菓子の籠を食堂の机に置いた
「相変わらず賑やかですね」
「おかげさまでね」
院長は椅子に腰を下ろした
その動作の途中、杖を壁に立てかけ、右足を慎重に引き寄せる
長い裾の下から、木と金具で作られた義足がわずかに覗いた
「最初にあんたがトリーを連れてきた時は、どうなることかと思ったよ」
「いきなり殴りかかってきましたからね」
「杖だよ」
「どっちでも同じでしょう」
「当たらなかったじゃないか」
「当たってたら困りますよ」
老婆は声を上げて笑った
「しかし、よく躱したもんだね」
「院長先生こそ、あの足でよく動きますね」
「昔取った杵柄さ」
老婆は義足の膝を軽く叩いた
「こいつに慣れるまでは苦労したけどね」
「軍で?」
老婆は一瞬、ユーリイを見た
「……分かるかい?」
「ええ、まあ」
「叩き上げの古い兵隊だよ。今じゃ杖がなきゃ歩くのも難しいけどね」
「十分怖いですよ」
「はっはっは!」
院長は愉快そうに笑った
しばらくして、表情を和らげる
「トリーのことも、ありがとうね」
「もう何度も聞きましたよ」
「何度でも言うさ」
老婆は窓の外に目を向けた
庭ではトリーがほかの子供たちと一緒に、タッカーの周りを取り囲んでいた
「いい子なんだよ、あの娘は」
「そうですね」
「あの時も、自分のためじゃなかったんだ」
ユーリイは黙って聞いていた
「昔から、誰かが困っていると放っておけない子でね」
「……そうですか」
「だから、余計に心配なんだよ」
院長は小さく息を吐いた
「優しいだけじゃ、生きていけないこともあるからね」
ユーリイは窓の外を見た
タッカーが収穫したマイスを掲げている
子供たちが歓声を上げた
「でも、優しくないとできないこともありますよ」
老婆はユーリイを見た
「……そうだね」
それ以上、二人は何も言わなかった
「おーい!ユーリイ!」
外からタッカーが呼んだ
「お前も手伝え!」
「料理人様が全部やってくれるんじゃなかったのか?」
「馬鹿野郎!マイスの皮くらい剥け!」
「はいはい」
ユーリイが立ち上がる
「じゃあ、行ってきます」
「ああ、頼んだよ」
院長は杖を手に、ゆっくりと立ち上がった
食堂の窓からは、子供たちの笑い声が聞こえていた
◇
その日の昼食は、収穫したばかりのアーダポルとマイスを使った料理になった
タッカーは大鍋でアーダポルを煮込み、マイスの一部は皮を剥いてそのまま茹でた
残りは実を外して、具だくさんのスープに加える
「ほら、できたぞ!」
湯気の立つ料理が食卓に運ばれる
「わあ!」
「いい匂い!」
「マイス、丸ごと食べていい?」
「熱いから気をつけろよ」
子供たちは席につき、料理が配られるのを待った
トリーが茹でたマイスを一本手に取った
「いただきます!」
小さな歯でかぶりつく
「……甘い!」
「そりゃそうだ。採れたてだからな」
タッカーが得意げに笑った
「これ、何もつけなくても美味しいね!」
「だろ?」
ユーリイは皿を並べながら、その様子を見ていた
二年前
この孤児院に初めて来た時、食卓には小さく切り分けられたパンが並んでいた
今は、大鍋いっぱいの料理がある
それですべてが解決したわけではない
明日も、その先も、苦労は続くだろう
それでも
「ユーリイ!」
トリーが声を掛けた
「何だ?」
「今度、また仕事持ってきてね!」
「おう、頼りにしてるよ」
「任せといて!」
トリーは胸を張った
その隣で、ほかの子供たちも口々に声を上げる
「あたしも!」
「僕も手伝う!」
「じゃあ、今度はみんなに頼もうかな」
「やった!」
子供たちの笑い声が、食堂いっぱいに響いた
ユーリイとタッカーは顔を見合わせた
「……まあ、悪くないな」
タッカーが呟く
「ああ」
ユーリイは頷いた
「悪くない」
窓の外では、収穫を終えた畑に、柔らかな風が吹いていた




