知識の遺産
「これは凄いな……」
イレーヌ・ブーブは、机の上に置かれた一冊の小冊子を、丁寧に捲っていた
およそ百枚の紙を紐で束ね、一冊に纏めたものだ
薄い
それでいて、驚くほど丈夫な紙だった
「……これは」
イレーヌは指先で紙の端をそっと持ち上げた
見覚えがあった
以前、ミークニー・ザッカー典医の書斎を訪れた際、見せてもらった冊子
あの時も、この紙の薄さと丈夫さには驚かされたものだった
どうすれば、このような紙を作ることができるのか
尋ねてみたものの、ミークニー自身も製法までは分からないという話だった
(まさか、同じものをここで目にするとはな……)
しかし、驚くべきは紙だけではなかった
その頁には、膨大な知識が丁寧な文字で書き込まれていた
項目ごとに整理され、見出しが付けられ、必要に応じて図や表まで添えられている
ただ知識を書き殴ったものではない
後から自分が読み返しても、あるいは第三者が読んでも、内容を理解できるように纏められていた
説明が長くなる部分では段落を分け、関連する内容については別の頁を参照するよう記されている
ところどころに追記や訂正もあった
それでも、全体の読みやすさは損なわれていない
(……実に几帳面な人物だったのだな)
自分自身が後から読み返すためだったのか
それとも、誰かに見せることを考えていたのか
それは分からない
ただ、この筆者が記録というものを大切にしていたことだけは確かだった
後から読む者が困らないように
必要な情報を、必要な場所で見つけられるように
そんな心遣いが、頁の端々から伝わってくる
イレーヌは小さく頷いた
(会って話をしてみたかったものだ)
そう思い、少しだけ目を伏せた
それが、もう叶わない願いであることを知っていたからだ
――
今日の閣議が終わった後のことだった
イレーヌが退出しようとすると、イオネ女王から声を掛けられた
「イレーヌ、少しよいか」
「はい、陛下」
「先ほどの農業の問題だが、参考になるものがあるかもしれぬ。こちらへ」
女王に案内されたのは、王宮の奥にある一室だった
そこで側近が恭しく運んできたのが、この小冊子である
「これは……?」
「メローペが不帰の樹海から持ち帰ったものだ」
イレーヌは思わず女王を見た
「殿下が、ですか?」
「正確には、あの子の近衛が書き残したものだ。ジゼル・ベルナール中尉という名を覚えているか?」
「もちろんでございます」
忘れるはずがなかった
第四王女メローペの近衛隊員
不帰の樹海からの帰還途中、襲撃者から王女を守り、命を落とした忠臣
その名は、王女救援作戦の報告書にも記されていた
「ベルナールは、樹海の中で学んだことを、可能な限り書き残していたらしい」
女王は冊子に目を落とした
「農業に関するものだけでも、相当な量がある。他にも土木、工業、教育、歴史……実に様々な分野に及んでいる」
「それほどのものが……」
「余の手元には、同じような冊子が数十冊ある」
イレーヌは言葉を失った
数十冊
目の前にある一冊だけでも、これほどの情報量なのだ
それが数十冊もあるという
そして、ふと思い出した
(そういえば、ミークニーも同じような冊子を持っていたな……)
最近、何かと話す機会の多い男
ミークニー・ザッカー典医
彼の書斎で見せてもらった冊子も、同じ紙で作られていた
内容は医療や衛生に関するものが中心だったが、やはり膨大な情報が書き込まれていた
あの時、彼は随分と丁寧に説明してくれたものだった
普段は口数の少ない男なのに、専門の話になると、こちらの質問にも一つ一つ真剣に答えてくれる
あの落ち着いた声
時折、考え込むように視線を落とす癖
そして、こちらが理解できたかどうか、さりげなく確かめるような眼差し
(……ふふ)
「……レーヌ」
イレーヌは気付かなかった
「イレーヌ、聞いておるのか?」
「失礼しました!」
慌てて顔を上げた
女王が、こちらをじっと見ていた
「お前にしては珍しい。何かいいことでもあったのか?」
「え?」
「口元が緩んでおったぞ」
「!」
イレーヌは思わず口元に手を当てた
女王は、その様子を見て小さく笑った
「まあよい。そなたにも、そのような顔をする時があるのだな」
「……お恥ずかしい限りでございます」
「別に咎めてはおらぬ」
女王は再び冊子へ視線を戻した
「ただし、話は聞いてもらわねば困るぞ」
「はい。申し訳ございません」
イレーヌは姿勢を正した
女王は静かに続けた
「これらの冊子には、今の王国にとって扱いの難しい知識も含まれている。すべてを自由に閲覧させるわけにはいかぬ」
「承知しております」
「研究は進めさせているが、そなたにも一度読んでもらいたいと思ってな」
女王は冊子を手に取った
「役立てられる知識まで、眠らせておくつもりはない」
「ありがたき幸せにございます」
「ただし、原本の取り扱いには十分注意せよ」
「はい。決して外部へ漏らすことのないよう、厳重に管理いたします」
女王は頷いた
そして、しばらく冊子を見つめていた
「……あの子たちは、実に多くのものを持ち帰ってくれた」
その言葉に、イレーヌは何も答えなかった
女王の声には、感謝だけではないものが含まれていたからだ
――
王女殿下が不帰の樹海から持ち帰ったものは多い
現在、イレーヌの領地でも栽培が進められているアーダポルやマイス
新しい農業技術
土木や工業に関する知識
ザッカー典医のかつての同僚が持ち帰った、膨大な料理のレシピ
さらには、娯楽道具に至るまで
いずれも王国にとって価値のあるものだった
しかし、それらの中でも、ベルナールが書き残した冊子の価値は計り知れない
イレーヌは再び頁を捲った
そこには、農地の管理についての記述があった
土地の性質
水の確保
作物の選定
連作による問題と、その対策
さらには、農業生産を安定させるための制度や、飢饉への備えについてまで書かれている
個々の技術だけではない
農業を取り巻く社会の仕組みについても、様々な考え方が紹介されていた
(なるほど……)
イレーヌは椅子に深く腰掛けた
この冊子に書かれていることを、すべてそのまま王国へ導入できるわけではない
土地の条件も違う
人々の暮らしも違う
制度も違う
それでも、考え方を学ぶことはできる
ある地域で成功した方法が、別の地域でも成功するとは限らない
だが、なぜ成功したのかを理解できれば、応用することは可能だ
(これは単なる農業の教本ではないな……)
農業技術の歴史
その発展に伴う社会の変化
人々の暮らしを支えるために、どのような制度が考えられてきたのか
そこまで含めた知識の集積だった
しかも、冊子のところどころには、筆者自身が疑問に思ったことも書き添えられている
理解できなかった部分には、その旨が正直に記されていた
後で確認したらしい箇所には、別の文字で補足がある
(分からぬことを、分からぬままにしていないのか)
イレーヌは感心した
そして、分からなかったことを、分かったふりで書いてもいない
当たり前のようでいて、なかなかできることではない
「……惜しい人物を亡くしたものだ」
思わず声が漏れた
ジゼル・ベルナール
王女を守るために命を落とした近衛兵
彼女は他の戦死者と同様、二階級特進を受け、少佐として葬られている
その忠誠と勇気は、王国が称えるべきものだった
だが、彼女の功績はそれだけではなかった
本人がどれほどの価値を意識していたのかは分からない
それでも、彼女が一頁ずつ丁寧に書き残した知識は、今こうしてイレーヌの手元にある
そして、これから王国が直面する困難を乗り越えるための助けになろうとしていた
イレーヌは冊子の表紙をそっと撫でた
「彼女の名は、将来にわたって残さねばならぬな……」
もっとも、今すぐその全容を公にすることはできない
イレーヌも、それは理解していた
農業や土木に役立つ知識がある一方で、現在の王国の制度や常識とは、あまりにもかけ離れた内容も含まれている
女王が原本の取り扱いに注意を促したのも当然だった
研究を進め、実用化できるものを見極める
公開できる知識は、必要な形に整理して人々へ伝える
そのためには、まだ多くの時間が必要だろう
しかし、今はそれを待っている余裕がなかった
――
今年の天候は、どうにもおかしい
女の月
花の月
そして男の月
暦は確かに進んでいるというのに、気温は例年ほど上がっていなかった
朝晩の冷え込みが続き、作物の生育にも遅れが見られる
昨年は冷夏だった
それに加えて蝗害まで発生した
地域によっては収穫量が大きく落ち込み、すでに備蓄を取り崩しているところもある
今年の収穫が始まるまで、あと数か月
それまで持ち堪えられない地域が出てくるかもしれない
いや
すでに、その兆候は現れている
イレーヌの机には、各地から届けられた報告書が積み重なっていた
穀物価格の上昇
家畜の売却
食料を求めて移動する人々
そして、病人や老人、幼い子供たちの窮状
飢饉になれば、最初に命を落とすのは弱い者たちだ
それは、過去の記録が嫌というほど教えてくれている
(今年の収穫までに、餓死者が出るだろうな……)
イレーヌは唇を結んだ
すべての人を救うことは難しい
そんなことは分かっている
それでも、救える命があるならば、一人でも多く救いたかった
治水工事
新たな農地の開墾
作物の品種改良
新作物の導入
食料の輸送経路の整備
すでに動かしている事業は数え切れない
しかし、どれも成果が現れるまでには時間がかかる
水路は一日では完成しない
開墾した土地も、すぐに十分な収穫をもたらすわけではない
新しい作物にしても、土地に適しているか確かめなければならない
何より、農民たちがその栽培方法を覚える必要がある
(間に合うか……)
イレーヌは机の上の冊子に目を落とした
ベルナールが書き残した知識
そこには、自分たちがまだ知らない方法があるかもしれない
すぐに役立つものもあれば、何年も研究しなければならないものもあるだろう
それでも、試す価値はある
女王陛下が、これほど貴重な資料を自分に託してくださったのだ
ならば、応えなければならない
イレーヌは別の紙を引き寄せた
冊子の内容を確認しながら、必要な項目を書き出していく
まずは、現在進めている事業に応用できるものを探す
次に、担当者を集めて検討させる
研究が必要なものは、関係する機関へ回す
もちろん、原本をそのまま渡すわけにはいかない
必要な情報だけを抜き出し、王国の事情に合わせて整理しなければならない
(……仕事が増えるな)
思わず苦笑した
すでに、予定は隙間なく埋まっている
明日は朝から各地の担当者との会議
午後には工事の進捗報告
その後は、穀物の備蓄量と輸送計画の確認が待っている
今夜も、早く休むことはできそうになかった
だが、やらねばならない
一日でも早く手を打てば、それだけ救える命が増えるかもしれないのだから
イレーヌは燭台を手元へ寄せた
そして、再び冊子を開いた
「……あの男が、また渋い顔をするな」
ふと、ミークニーの顔が頭に浮かんだ
遅くまで仕事をしていると、決まって心配そうな顔をする
少しは休んでください
そんな言葉まで、聞こえてきそうだった
「分かってはいるのだがな……」
誰にともなく呟く
それでも、手を止めるつもりはなかった
窓の外では、王都の夜が静かに更けていく
机の上には、各地から届けられた報告書
そして、一冊の小さな手記
その頁には、今は亡き一人の近衛兵が書き残した、丁寧な文字が並んでいた
イレーヌは羽根ペンを取り直した
まだ、やれることはある
そう信じて、次の頁を捲った




