男子の週
男の月
その第二週は、男子の週と呼ばれている
大地を司る男性神、デスカトリ
この週、男子のいる家庭では、デスカトリ神の祝福を受けるため、各地の神殿を訪れる習わしがあった
普段は静かな神殿も、この時ばかりは大勢の参拝者で賑わう
色鮮やかな衣装を着た男の子たち
その手を引く母親や姉たち
露店には菓子や玩具が並び、広場では楽師たちが陽気な音楽を奏でている
もっとも、祭りを楽しんでいるのは主に子供たちである
男子を連れた家族にとって、この日は決して気楽な外出ではなかった
普段なら屋敷の奥で大切に守られている男子が、一斉に外へ出てくるのだ
王都中から兵士や騎士が動員され、神殿の周囲には幾重もの警備が敷かれる
門の前には衛兵
広場には巡回する騎士
人混みの中にも、私服の警備兵が紛れ込んでいるという
それでも、この日だけは、家族たちは男子を神殿へ連れてくる
大地の神の祝福が、その子の生涯を守ってくれると信じられているからだった
――
ユーリ・ミレフも、幼い頃に家族と神殿を訪れたことがあった
その日は朝から、家の中が騒がしかった
「ユーリ!まだ着替えていないの!」
「今やってる!」
「弟の方はもう支度を済ませているわよ!」
「分かってるって!」
ユーリは慌てて上着に袖を通した
部屋の入口では、弟が得意そうな顔で立っている
「兄さん、遅いよ」
「うるさいな。お前は早すぎるんだよ」
「だって、今日はお祭りだよ!」
弟は嬉しそうに笑った
ミレフ家には男子が二人いた
ユーリと、その弟
男子が一人いるだけでも珍しいこの国で、同じ家に二人の男子がいるというのは、非常に恵まれたことだった
同時に、家族にとっては気の休まらないことでもあった
この日、二人を神殿へ連れていくために、一族の長であるハース自らが同行することになっていた
「二人とも、こちらへ来なさい」
広間に入ると、ハースが待っていた
その周囲には母親たちや姉たちが集まっている
「今日は人が多い。決して勝手な行動をしないこと」
「はい!」
弟が元気よく返事をした
ユーリも頷く
ハースは二人を見渡した
「護衛も付けてあるけれど、何かあったらすぐに知らせなさい。知らない者に声をかけられても、勝手についていってはいけません」
「分かっています」
「本当に?」
「……分かってますって」
ハースは小さく息を吐いた
「まったく。あなたたちは……」
呆れたような口調だったが、その表情はどこか優しかった
ハースは付き添いの女性たちへ視線を移した
「神殿までは予定どおりの道を通ります。護衛は前後に配置して、広場では二人から目を離さないように」
「承知しました」
家族の外出というより、小規模な行列のような準備だった
しかし、当の二人に緊張感はない
弟がユーリの袖を引っ張った
「兄さん、飴細工を買ってもらえるかな?」
「去年も買ってもらっただろ」
「今年も欲しい!」
「じゃあ、ハースに頼んでみろよ」
「えー、兄さんが頼んでよ」
「なんで俺が」
そんな二人の様子を見て、姉たちが苦笑していた
――
王都の大通りは、普段とはまるで違う賑わいだった
神殿へ向かう家族連れ
色鮮やかな旗
道端に並ぶ露店
焼き菓子の甘い匂いが漂い、楽師たちの演奏が通りに響いている
ユーリと弟は、あちらこちらへ目を奪われていた
「あっ!兄さん、あれ!」
弟が指差した先では、飴細工の職人が熱い飴を器用に伸ばしていた
細長く伸ばされた飴は、あっという間に小さな鳥の形になる
「すごいな!」
「欲しい!」
「まずは参拝を済ませてからよ」
姉の一人が弟をたしなめた
「えー!」
「えー、じゃありません!」
ユーリは思わず笑った
すると、別の姉から睨まれた
「ユーリも笑ってないで、ちゃんと歩きなさい!」
「はーい」
二人の男子を囲むように、母親たちと姉たちが歩く
その少し前では、ハースが護衛の女性と何かを話していた
時折振り返り、二人の姿を確かめている
ユーリはその様子を眺めた
(大げさだなあ)
そう思ったが、口には出さなかった
男子が二人もいる家では、周囲が神経質になるのも仕方がない
それくらいは、幼いユーリにも分かっていた
ただ、せっかくの祭りなのだから、もう少し楽しめばいいのにとも思っていた
――
デスカトリ神殿は、王都でも有数の大きさを誇る建造物だった
白い石で造られた太い柱が並び、その奥には巨大な神像が安置されている
大地の神デスカトリ
豊穣と生命を司り、地に生きる者たちを見守る男性神
神像は穏やかな表情を浮かべ、片手を大地へ向けて差し伸べていた
その足元には、穀物や果実を模した彫刻が施されている
「大きいねえ、兄さん」
「ああ」
ユーリは神像を見上げた
天井近くまで届く巨大な像
その顔は、遥か上方にあった
神殿の中には香の匂いが漂っている
高い窓から差し込む陽光が、石造りの床に細長い模様を描いていた
参拝者たちは順番に神像の前へ進み、神官から祝福を受けている
やがて、ユーリたちの番になった
「大地の神デスカトリの祝福が、この子らと共にありますように」
神官が静かに祈りの言葉を唱えた
ハースが頭を下げる
母親たちも、姉たちもそれに倣った
ユーリと弟も、教えられたとおりに頭を下げた
ただ、弟は途中で顔を上げてしまった
「兄さん、神様って本当にいるのかな?」
「しっ!」
隣にいた姉が小声で注意した
「神殿でそんなことを言うものじゃありません!」
「だって、あんなに大きいんだよ?」
「これは神様のお姿を彫ったものなの!」
「じゃあ、本物はもっと大きいの?」
「もう!」
ユーリは笑いを堪えるのに苦労した
祝福が終わると、一行は神殿の出口へ向かった
重い扉の向こうには、陽光に満ちた広場が広がっている
露店の呼び声
楽師の奏でる音楽
楽しそうな子供たちの声
弟が待ちきれないように身を乗り出した
「兄さん!飴!」
「分かってるって!」
ユーリも笑いながら答えた
そして、神殿の門をくぐった
その時だった
一瞬
目の前が白く光った
「……?」
眩しさに、思わず目を細める
しかし、すぐに光は消えた
広場には先ほどと変わらない光景が広がっている
ただ、一つだけ違っていた
目の前に、一人の男が立っていた
「……あれ?」
ユーリは足を止めた
見知らぬ男だった
年齢はよく分からない
若いようにも見えるし、ずっと年上のようにも見える
特別に豪華な衣服を着ているわけではない
むしろ、どこにでもいそうな、ごく普通の姿だった
それなのに、妙に目を引いた
この国では、男性が一人で外を歩くことはほとんどない
まして、男子の週である
神殿の周囲には大勢の女性たちがいて、男子の傍らには必ず家族や護衛が付き添っている
しかし、その男の周りには誰もいなかった
ただ一人
広場の真ん中に立っていた
不思議なことに、周囲の人々は誰も男を気に留めていない
まるで、そこには何もないかのように
(……誰だろう)
ユーリは男を見つめた
初めて見る顔のはずだった
記憶を探しても、思い当たる人物はいない
それなのに
懐かしかった
ずっと昔から知っているような
遠い昔、どこかで会ったことがあるような
そんな気がした
男は、ユーリを見ていた
その目は穏やかだった
何かを確かめるように、じっとこちらを見つめている
ユーリは声をかけようとした
「……あの」
その瞬間、男が微笑んだ
やわらかな笑みだった
何かを喜んでいるようにも
何かを懐かしんでいるようにも見えた
ユーリは、なぜか胸の奥が温かくなるのを感じた
しかし
瞬きをした次の瞬間
男の姿は消えていた
「……え?」
ユーリは辺りを見回した
右
左
広場の向こう
神殿の階段
どこにもいない
あれほど大勢の人がいる場所で、ほんの一瞬のうちに姿を消すなど、できるはずがない
「……どこに行ったんだ?」
「兄さん、どうしたの?」
弟が不思議そうに顔を覗き込んできた
「今、そこに男の人がいたよな?」
「男の人?」
「ああ。ほら、あそこに」
ユーリは先ほど男が立っていた場所を指差した
しかし、弟は首を傾げた
「誰もいないよ?」
「いや、さっきまでいたんだよ」
「えー?」
弟はきょろきょろと辺りを見回した
「見てないよ?」
「ユーリ、何をしているの?」
姉が近づいてきた
「今、ここに男の人がいなかった?」
「男の人?」
「ああ。一人で立ってたんだけど」
姉の表情が変わった
すぐに周囲へ視線を走らせる
「一人で?」
「うん」
「どんな人?」
「ええと……」
ユーリは説明しようとした
しかし、うまく言葉が出てこなかった
顔は覚えている
確かに見た
なのに、どんな顔だったのか説明しようとすると、妙に曖昧になってしまう
「……普通の男の人」
「普通って……」
姉は困ったように眉を寄せた
その話を聞いたハースが、すぐに近づいてきた
「どうしたの?」
「ユーリが、一人でいる男の人を見たと言っているんです」
ハースはユーリを見た
「本当なの?」
「うん。でも、急にいなくなったんだ」
「……そう」
ハースは周囲を見回した
そして、護衛の女性へ小さく何かを告げた
護衛が頷き、広場の方へ歩いていく
「ユーリ、その人は何か言っていた?」
「ううん。何も」
「そう。なら、あまり気にしなくていいわ」
ハースは穏やかに微笑んだ
「人が多いからね。誰かを見間違えたのかもしれないわ」
「……そうかな」
「さあ、みんなが待っているわよ」
ユーリはもう一度、広場を見回した
やはり、男の姿はない
(……変なの)
そう思った時だった
耳のすぐ後ろから、声が聞こえた
「いつか、つらい運命があっても顔を上げて進みなさい」
「!」
ユーリは勢いよく振り返った
誰もいない
そこには、先ほどから一緒に歩いていた家族がいるだけだった
「ユーリ?」
「……今、誰か喋らなかった?」
「え?」
姉が首を傾げる
「何も聞こえなかったけど?」
「……」
その時
ふわり
一陣の風が、ユーリの傍らを通り過ぎた
髪が揺れる
衣服の裾が小さく翻る
風は、そのまま広場の向こうへと吹き抜けていった
ユーリは、しばらくその場に立ち尽くしていた
「兄さん!」
弟が袖を引っ張った
「飴!飴買いに行こうよ!」
「……ああ」
「早く!」
弟に手を引かれ、ユーリは歩き始めた
何度か振り返ってみたが、あの男はどこにもいなかった
その後、二人は飴細工を買ってもらった
弟は鳥の形
ユーリは小さな馬の形
露店を回り、菓子を食べ、家族と一緒に祭りを楽しんだ
帰る頃には、弟はすっかり疲れて姉に抱きかかえられていた
ユーリも眠くなっていた
それでも、あの出来事だけは頭から離れなかった
あの男は誰だったのだろう
どうして懐かしいと感じたのだろう
そして、あの言葉は何だったのだろう
いつか、つらい運命があっても
顔を上げて進みなさい
その意味を、幼いユーリには理解できなかった
ただ、不思議な出来事として、記憶の片隅に残った
――
それから、長い年月が過ぎた
ユーリ・ミレフという名の少年は、ユーリイ・シーゲルとなった
幼い頃には想像もしなかった人生を歩み、多くのものを失い、多くのものを得た
あの日の神殿
あの男
あの声
いつしか、思い出すこともほとんどなくなっていた
それでも、完全に忘れたわけではなかった
――
今日は、男の月の第二週
男子の週の中日である
王都のデスカトリ神殿には、朝から多くの参拝者が訪れていた
色鮮やかな衣装を着た男の子たち
その周囲を囲む母親や姉たち
神殿へ続く大通りには、普段よりも多くの衛兵が配置されている
露店も賑わい、街には祭りの雰囲気が漂っていた
パン屋の店先からも、神殿へ向かう家族連れの姿が見える
ユーリイは窓の向こうを眺めていた
小さな男の子が、姉らしい少女に手を引かれて歩いている
その子は露店を見つけるたびに立ち止まり、姉を困らせていた
(……あいつも、あんな感じだったな)
思わず笑みがこぼれる
そういえば、自分たちもハースや母親たち、姉たちと一緒に神殿を訪れたことがあった
あの日は随分と騒がしかった
家族は皆、緊張していたのに、自分と弟だけは祭りに夢中だった
(……そういえば)
ふと、記憶の奥に埋もれていた光景が浮かんだ
神殿の門
眩しい光
広場に立っていた、一人の男
懐かしいような、不思議な笑み
そして
いつか、つらい運命があっても顔を上げて進みなさい
(……あれは、何だったんだろうな)
今となっては、確かめようもない
ただ、あの時感じた不思議な懐かしさだけは、今でもはっきりと覚えていた
「おい!客が焼きそばパンを待ってるぞ!」
突然、奥から声が飛んできた
「……あっ!」
ユーリイは我に返った
タッカーが呆れた顔でこちらを見ている
「何をぼうっとしてるんだ。今日は忙しいんだぞ!」
「ああ、悪い悪い!」
慌てて焼きそばパンを手に取る
「お待たせしました!」
客の女性は笑いながらパンを受け取った
「ありがとう。随分考え事をしていたみたいね」
「はは、ちょっと昔のことを思い出してまして」
「そうなの?」
「ええ。昔、男子の週に神殿へ行ったことがあって」
「まあ、そうなのね」
女性は連れていた男の子の頭を撫でた
「うちもこれから行くところなのよ」
男の子は、ユーリイの顔をじっと見つめていた
「お兄ちゃんも、神様にお願いしたの?」
「うん?」
「僕ね、今日、神様にお願いするんだ!」
「何をお願いするんだい?」
「大きくなったら、いっぱい遊べますようにって!」
母親が思わず笑った
「そんなお願いをするの?」
「だって、もっと遊びたいんだもん!」
ユーリイも笑った
「そうか。それはいいお願いだな」
「うん!」
男の子は嬉しそうに頷いた
母親に手を引かれ、店を出ていく
その小さな背中を見送りながら、ユーリイはふと思った
(……あの子にも、何かいいことがあるといいな)
店の外では、穏やかな風が吹いていた
神殿へ向かう家族たちの間を抜け、露店の旗を揺らし、パン屋の軒先を通り過ぎていく
ユーリイは、ほんの少しだけ顔を上げた
青い空が広がっていた
「ユーリイ!次の焼きそばパン!」
「ああ、今行く!」
彼は笑って振り返った
今日も王都は平和だった
そして、男子の週の賑わいは、まだまだ続いていた




