炎の蜷局
「待て!」
王都の路地を、一人の女が駆け抜けていた
その後ろを追うのはユーリイ・シーゲル
女は何度も振り返りながら、人通りの少ない裏道へと飛び込んだ
しかし、その先は高い石壁に塞がれていた
「くそっ!」
女が振り返る
息を切らしながらも、腰に下げたブロードソードへ手を伸ばした
「そこまでだ。大人しくしてくれ」
「ふざけるな!」
女が踏み込んだ
鋭い蹴りがユーリイの腹部を狙う
ユーリイは半身になってそれを捌いた
空を切った足が地面に着くと同時に、女はブロードソードを抜き放つ
「この野郎!」
振り上げられた剣が、ユーリイの頭上へと迫った
左手のダガーが動く
ギン!
金属のぶつかる鋭い音
ダガーの刃が、ブロードソードの剣先を逸らした
その瞬間
左手に嫌な感触が走った
(……ん?)
しかし、ユーリイの動きは止まらない
そのまま相手の剣を弾き上げる
女の手からブロードソードが飛んだ
「なっ!」
間髪入れず、ユーリイが懐へ踏み込む
女の腕を取り、身体を捻って地面へ押さえつけた
「ぐあっ!」
「動くな」
「離せ!はなせよ!」
「暴れると余計に痛いぞ」
「くそっ!離せって!」
「お疲れ様、ユーリイくん」
聞き慣れた声が路地の入口から響いた
振り返ると、そこにはポリーナ准尉が立っていた
後ろには四人の部下が控えている
「おい!犯人を連れて行け!」
ポリーナの指示で、部下たちが駆け寄った
女の身柄を引き渡し、ユーリイはようやく立ち上がった
「改めて、お疲れ様」
「……何でも屋に大捕り物をさせないでください。ポリーナ准尉」
「すまない、すまない。ちゃんと報酬は払うからさ」
「いや、そういうことじゃなくて……」
「出来る者に丸投げする。これこそ理想の仕事のやり方だよ。わはは!」
「……」
「はは、すまない。でも、実際助かったよ」
ポリーナは悪びれる様子もなく笑った
ユーリイは小さくため息をついた
その時、左手に残る違和感を思い出した
腰の鞘からダガーを抜く
刀身を光にかざした
「……」
「うん?どうした?」
ポリーナが声をかけた
ユーリイはしばらく刃を見つめていたが、やがて鞘に戻した
「ああ、何でもないです。お疲れ様です」
「あっ、ああ。お疲れ様」
ポリーナは少し不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった
――
その夜
ユーリイは自宅の椅子に腰掛け、一本のダガーを見つめていた
横ではエリザベスが身体を丸め、気持ちよさそうに喉を鳴らしている
右手に握られたダガー
その刀身には、はっきりとひびが入っていた
刃の根元に近い部分から、斜めに走る細い亀裂
指先でそっと触れる
「……」
刀身には、炎を纏った龍の刻印があった
炎の蜷局
ロヒカールメ・グンドナーの工房で作られたことを示す刻印である
特別な注文品ではない
同じ型のものが、数多く作られている
だが、その品質は並の鍛冶師が作る一点物を遥かに凌ぐ
ユーリイは、その刻印を指先でなぞった
(なぜ、もっとうまく受け流せなかった……)
あの程度の相手だった
もっと余裕を持って対処できたはずだ
そもそも、ダガーで受ける必要などなかったのではないか
相手の剣を避けることも、間合いを外すこともできた
いくら考えても、今さらどうにもならない
後悔だけが残った
「……ミトゥ」
小さく名前を呟いた
ミトゥ・ハーグボウ
陽気で、おっちょこちょいで、時には余計なことまで口にする男だった
だが、不思議と憎めない
誰かが落ち込んでいれば、くだらない冗談を言って笑わせる
張り詰めた空気の中でも、あいつが口を開くと、少しだけ肩の力が抜けた
第893小隊のムードメーカー
そして、共に不帰の樹海を生き抜いた仲間だった
王都まで、あと少し
本当に、あと少しだった
だが、ミトゥは帰ってこなかった
ユーリイはダガーを見つめた
これは、ミトゥが使っていたものだ
新兵訓練校を卒業した時、校長だったネメシス・ペルサキス大佐から贈られた一本
卒業生たちに与えられた、実戦で使える武器
ユーリイ自身も、同じものを受け取っている
彼はゆっくりと立ち上がった
エリザベスが片目を開けた
「……にゃ」
「何でもないよ」
エリザベスは再び目を閉じた
ユーリイは戸棚の前に立ち、引き出しを開けた
中には、一本のダガーが大切にしまわれていた
同じ形
同じ長さ
同じ炎の蜷局
自分がネメシスから受け取ったダガーだった
それを取り出す
代わりに、ひびの入ったミトゥのダガーを引き出しの中へ置いた
しばらく見つめる
そして、静かに引き出しを閉じた
――
翌日から、ユーリイは王都の鍛冶屋を訪ね歩いた
最初に訪ねたのは、以前から仕事で付き合いのある鍛冶屋だった
「……こりゃあ、ひどいね」
年配の女性鍛冶師が、ダガーを手に取って唸った
「直せるか?」
「うーん……」
女は刃を光にかざし、ひびの状態を確かめた
「これだけの作品を直すとなると、難しいね」
「そうか……」
「普通の刃物なら、何とかできるかもしれない。だけど、こいつはね……下手に手を入れたら、かえって駄目にしちまう」
鍛冶師はダガーを返した
「悪いけど、うちじゃ無理だよ」
「分かった。ありがとう」
次に訪ねたのは、王都でも大手と呼ばれる工房だった
職人はダガーを一目見るなり、眉を上げた
「ほう、いいものを持っているね」
「修理を頼みたい」
「……これは厳しいね」
「できないか?」
「諦めなさい。同等のものを安く売ってあげるから」
「……同等のもの、か」
「性能なら十分なものを用意できる。わざわざ危険を冒して、これを直す必要はないでしょう?」
「……そうだな」
だが、ユーリイは新しいダガーを買わなかった
さらに別の工房を訪ねた
名工と呼ばれる女性鍛冶師がいる店だった
老鍛冶師は、時間をかけて刀身を調べた
「……完全に打ち直すことになるだろうね」
「打ち直せば、元に戻るのか?」
「分からない」
「……」
「形は似せられるかもしれない。だが、全く同じものになる保証はないよ」
「そうか……」
「それに、この刃の作りは少々特殊だ。私にも分からないところがある」
「……分かった」
ユーリイは頭を下げた
それからも、何軒もの鍛冶屋を訪ねた
小さな工房
大きな工房
名の知れた鍛冶師
腕がいいと評判の職人
だが、返ってくる答えは、ほとんど同じだった
直せない
直せたとしても、元どおりになる保証はない
新しいものを買った方がいい
誰も、いい加減な仕事を引き受けようとはしなかった
それだけ、このダガーが優れた作品であることを、鍛冶師たちは理解していた
しかし、ユーリイにとっては何の慰めにもならなかった
(……無理なのか)
ダガーを鞘に収める
同じ性能のものが欲しいわけではない
同じ形のものが欲しいわけでもない
ただ、この一本を直したかった
ミトゥが使っていた、この一本を
――
数日後
「おや、ユーリイくんじゃないか」
王都の通りを歩いていたユーリイに、声がかかった
振り返ると、ポリーナが片手を上げていた
「ポリーナ准尉」
「この前は助かったよ。おかげで面倒な仕事が一つ片付いた」
「……また丸投げするつもりじゃないでしょうね」
「ははは、そう警戒しないでくれよ」
ポリーナは笑った
そして、ふと思い出したように言った
「そういえば、この前、ダガーを見ていたが、何かあったのかい?」
「うん?ああ、少し欠けが入っただけです」
「少し欠けが入ったぐらいで、あんな顔をするわけないじゃないか」
「……」
ユーリイはポリーナを見た
「あなたは……適当な人だと思っていましたが、意外と人を見ているんですね」
「意外って失礼だな、君は」
ポリーナは苦笑した
「まぁ、いい。で、実際はどうなんだ?」
「……ダガーの刀身に、ひびが入ってしまって」
「ほう。見せてもらえるか?」
ちょうど鍛冶屋巡りをしていたユーリイは、件のダガーを持ち歩いていた
懐から取り出し、ポリーナへ手渡す
ポリーナは丁寧な手つきで受け取ると、刀身を光にかざした
「……ふむ」
刃を傾け、ひびの入った部分をじっと見つめる
「ああ、これはひどいな。直せるか分からん」
「どこでもそう言われました。買い換えた方が早いって」
ユーリイは悲しそうにうつむいた
ポリーナは、もう一度ダガーを見つめた
「……ん?」
その視線が、刀身の刻印で止まった
「蜷局を巻いた炎……」
「え?」
「いや、こういう意匠を刻んだ武器を作る工房が、町外れにあったはずだが……」
ポリーナはしばらく考え込んだ
「そうだ。グンドナー工房といったか」
「本当ですか!」
ユーリイが思わず身を乗り出した
「お、おう。ただ……」
「ただ?」
「確か、工房主が二年前に亡くなって、閉鎖したはずだが」
「……」
せっかく見えた希望が、あっさりと打ち消された
それでも、ユーリイは顔を上げた
「グンドナー工房ですね。情報ありがとうございます!」
「いや、構わんが……」
ポリーナは少し驚いたようにユーリイを見た
「そんなに大切なものなのかい?」
「……ええ」
短い返事だった
だが、それ以上の説明は必要なさそうだった
ポリーナはダガーを返した
「そうか。直るといいな」
「ありがとうございます」
――
グンドナー工房
その名を頼りに調べ始めると、かつて工房主の弟子だったという女性鍛冶師の存在が分かった
ユーリイは早速、その工房を訪ねた
「ロヒカールメ・グンドナーの弟子だったと聞いたんだが」
作業台の向こうで槌を振るっていた女性が顔を上げた
「ああ、私はロヒカールメの婆さんの弟子と言えば、そうだよ」
「このダガーなんだが、直せないか?」
ユーリイはダガーを差し出した
女性はそれを受け取り、刻印を見た
「……ああ、確かに婆さんの作品だね」
刀身を調べる
「ひどいことになってるじゃないか」
「直せるか?」
「……無理だね」
「……そうか」
「私は弟子と言っても、三年で追い出されてね。その後、別の師匠について修業してから独立したんだ」
女性はダガーを作業台へ置いた
「あの婆さんの作品には独自の製法があってね。私はそれを受け継いでいない」
「……」
「大まかな修理はできるよ。だけど、元のように直すことはできない」
「どこでもそう言われた」
「そうだろうね」
女性は肩をすくめた
「私だって、無責任なことは言えないからね」
ユーリイはダガーを受け取った
しばらく黙っていたが、やがて口を開いた
「……工房って、どこにあったんだ?」
「ええ?」
「グンドナー工房だ」
「行っても仕方ないよ。婆さんが亡くなって、工房は閉鎖されたんだから」
「それでもいい」
「何もないと思うけどね」
「頼む!」
女性は目を丸くした
目の前の男は、何軒もの工房で断られてきたのだろう
それでも、まだ諦めるつもりはないらしい
「……あー!分かったよ!」
女性はガシガシと頭を掻いた
「まったく、頑固な男だね、あんたは」
そう言って、ロヒカールメ・グンドナーの元弟子は、工房のあった場所を教え始めた




