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遺伝子の小さな箱庭  作者: 妙義 豊


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医療調査①

焼きたてのパンの香りが店内に漂っている


昼の混雑がようやく落ち着き、タッカーは厨房の奥で何やら作業をしていた


「おーい、ユーリイ!」


「何だよ」


「ちょっとこっち来い」


「今度は何だ?」


「いいから来いって」


面倒くさそうに厨房へ入ったユーリイの前に、タッカーが皿を差し出した


皿の上には、厚めに切られた固焼きパンが二枚


その間から、白っぽい具材がはみ出している


「何だ?これ」


「新作だ」


「それは見れば分かる」


「湯がいた皮付きアーダポルを潰して、燻製肉とピクルスのみじん切りを混ぜたものだ。それを、うちの自慢の固焼きパンに挟んである」


「ほう」


ユーリイはパンを持ち上げ、断面を眺めた


アーダポルの淡い色の中に、燻製肉と刻んだピクルスが散っている


「調味料は?」


「塩とマスタード、それにワインビネガーだ」


「なるほどな」


一口かじる


固焼きパンの皮が小気味よい音を立てた


中のアーダポルは柔らかく、燻製肉の塩気と香りが広がる


続いてピクルスの酸味が追いかけてきた


「……」


「どうだ?」


タッカーが身を乗り出す


ユーリイはもう一口かじった


「味はどうだって聞いてんだよ」


「聞こえてる」


「なら答えろ」


ユーリイはゆっくり飲み込んだ


「素直に旨いと言うのはしゃくだが、普通に旨い」


「だろ?だろ?」


タッカーがにかっと笑った


「これなら売れると思うんだよ!」


「おい、痛いって!」


ばしばしとユーリイの背中を叩く


「お前、手加減しろよ!」


「褒めたのはお前だろ!」


「褒めてねえ!」


「旨いって言ったじゃねえか!」


「普通に、だ!」


「十分だろ!」


二人が騒いでいると、背後から声がした


「相変わらず仲がいいですね」


「うぉい!」


ユーリイが振り返った


そこには、見慣れた男が立っていた


「何でお前が居る?」


「かつての仲間が訪ねてきたというのに、酷い言い草ですね」


ミークニー・ザッカーは、いつもの穏やかな笑みを浮かべていた


「いや、そういう意味じゃねえよ」


ユーリイは食べかけのパンを皿に戻した


「お前、今は王城の典医だろ?忙しいんじゃないのか?」


「ええ、忙しいですよ」


「だろうな」


「ですが、その忙しい典医に猫を診させたのは誰でしたっけ?」


「……」


ユーリイは一瞬黙った


そして、すっと姿勢を正す


「その節は大変お世話になりました」


深々と頭を下げた


「いえいえ」


ミークニーは楽しそうに笑った


「無事に回復したようで何よりです」


「おかげさまで」


「それで、あの子はここにはいないのですか?」


「エリザベスか?」


「ええ」


「ここは食い物屋だ。動物は立ち入り禁止だぞ」


タッカーが横から答えた


「それは感心ですね」


ミークニーが頷く


「エリザベスなら、斜め上の大家のところにいるよ」


ユーリイが付け加えた


「なるほど」


「たまにこっちへ来ようとするんだけどな」


「当たり前だ!厨房に入られたら困るだろ!」


「分かってるって」


タッカーは腕を組んだ


「それにしても、よくここが分かったな」


「以前にも来ていますからね」


「そうだったか?」


「忘れたんですか?」


「……そういや、そんなこともあったな」


「相変わらずですね」


ミークニーは苦笑した


ユーリイは改めて彼を見た


「で、実際何でこんなところに来た?」


「はい?」


「男が一人で来る場所じゃねーぞ」


タッカーも頷いた


「ここらは下町だからな。王城の近くとは違うぞ」


「君らが言いますか」


ミークニーは呆れたように二人を見た


「それに、私一人ではありませんよ」


そう言って、ちらりと店の入口へ視線を向けた


ユーリイとタッカーもそちらを見る


入口の外には、買い物客らしい女性が二人立っていた


一人は通りの向こうを眺め、もう一人は店先の商品を見ている


どちらも特に目立つ格好ではない


「……なるほどな」


ユーリイが小さく呟いた


「さっきから感じていた気配は、そういうことか」


「気づいていたんですか?」


「まあな」


「俺は分からなかったぞ」


タッカーが首を傾げた


「お前はパンのことしか考えてなかっただろ」


「うるせえ」


ミークニーは小さく笑った


「ブープ伯爵が付けてくれました。外に出る条件だそうです」


「なるほどねえ」


「もっとも、私も元軍人なんですけどね」


「違いない」


「ちげーねぇ」


ユーリイとタッカーの声が重なった


三人は顔を見合わせて笑った


かつて同じ部隊に所属し、死線をくぐり抜けてきた男たち


今では一人は何でも屋、一人はパン屋、そして一人は王城の典医である


立場は変わった


だが、こうして顔を合わせれば、昔と大して変わらない


「それで、今日は何の用だ?」


ユーリイが尋ねた


「少し相談がありまして」


ミークニーの表情がわずかに変わった


「できれば、落ち着いて話せる場所があると助かるのですが」


「だったら事務所だな」


「おう、俺も行く」


タッカーが厨房の奥へ声をかけた


「ちょっと上に行ってくる!店を頼むぞ!」


返事を確認すると、三人は店の奥へ向かった


――


事務所には小さな机と椅子が置かれていた


壁際には帳簿や書類が積まれ、棚には茶器が並んでいる


タッカーが湯を沸かし、三人分のお茶を用意した


「で?」


椅子に腰を下ろしたユーリイが口を開いた


「相談って何だ?」


ミークニーは茶を一口飲んだ


「今回、私が町に出たのは調査のためです」


「調査?」


「ええ。世間一般の医療水準というものを、実際に見て回ろうと思いまして」


「医療水準?」


タッカーが聞き返した


「王城で診療しているだけでは分からないことが多いんですよ」


「そりゃそうかもしれんが……」


ユーリイは首を傾げた


「ここは王都だろ?いい医者があっちこっちにいるんじゃないのか?」


「そうだと良いのですが……」


ミークニーは少し顔を曇らせた


「王城には優秀な医師が集まっています。薬も器具も、王国で最も良いものが揃っているでしょう」


「だろうな」


「ですが、それは王国全体の医療水準を表しているわけではありません」


ミークニーは机の上で指を組んだ


「普通の人々が、病気になった時にどのような治療を受けられるのか。怪我をした時に、どこまで処置してもらえるのか。それを知りたいんです」


「なるほどな」


「王都での調査を終えたら、今度は地方へ向かう予定です」


「地方まで?」


「ええ」


「お前が自分で?わざわざ?」


タッカーが驚いたように尋ねた


「はい」


ミークニーは迷わず答えた


「逆に言えば、この調査は私にしかできません」


「ほう?」


ユーリイが眉を上げた


「随分と大きく出たな」


「事実ですから」


ミークニーは微笑んだ


「ナストロンドで先端の医療を学び、現在の王国の最高水準の医療を知っている私にしか、できない調査です」


二人は黙って彼の言葉を聞いた


「何が足りないのかを知らなければ、何から始めるべきかも分かりません」


「……なるほどな」


ユーリイが頷いた


「ナストロンドで覚えたことを、そのまま町の医者に教えるってわけにはいかねえもんな」


「ええ」


「道具も薬も違うしな」


「その通りです」


ミークニーは嬉しそうに頷いた


「たとえば、ナストロンドでは簡単にできた検査でも、こちらでは器具そのものが存在しない場合があります」


「そりゃそうだ」


「薬についても同じです。知識があっても、必要な材料が手に入らなければ作れません」


タッカーが腕を組んだ


「パンと似たようなもんか」


「パン?」


「作り方を知ってても、小麦粉がなけりゃパンは焼けねえ。窯がなけりゃ焼くこともできねえ。材料も道具も揃わなきゃ、知識だけあってもどうにもならんだろ」


「まさにその通りです」


ミークニーは笑った


「ですから、まずは現状を知る必要があるんです」


ユーリイは椅子の背にもたれた


「それで、俺たちに何をしてほしいんだ?」


「町の医師や治療院を訪ねる際に、案内をお願いしたいんです」


「案内?」


「ええ。私は王城の医師としては知られていますが、町の事情には疎いですから」


「ふむ」


「それに、最初から典医として訪ねれば、相手も構えてしまうでしょう」


「そりゃそうだな」


ユーリイは苦笑した


「王城から医者が来たなんて言われたら、何かやらかしたのかと思うだろうし」


「そういうことです」


「だから、俺たちに間に入ってほしいと」


「はい」


タッカーが首を傾げた


「でもよ、俺たちだって医者の知り合いなんか、そんなにいねえぞ」


「構いませんよ」


ミークニーは答えた


「まずは、どこにどんな医師がいるのかを知るところから始めたいんです」


「だったら、ユーリイの仕事だな」


タッカーが即座に言った


「おい」


「お前、何でも屋だろ」


「そうだけどよ」


「俺はパンを焼かなきゃならん」


「分かってるって」


ユーリイはミークニーを見た


「で、いつからだ?」


「できれば早めに始めたいと思っています」


「分かった。明日からで良いか?」


「ええ、よろしくお願いします」


ミークニーは頭を下げた


「しかし、王城の典医様が町医者巡りとはな」


タッカーが感心したように呟く


「偉くなっても、やることは昔と変わらねえな」


「昔と?」


「お前、捨て石隊にいた頃からそうだっただろ」


タッカーは笑った


「怪我人がいれば放っておけねえし、薬が足りなきゃ何とかしようとするし」


「そうでしたかね」


「そうだったよ」


ユーリイも頷いた


「お前、薬草を見つけるたびに嬉しそうにしてたじゃねえか」


「それは貴重でしたからね」


「こっちは食える草かどうかしか気にしてなかったのに」


「お前はいつも腹を空かせてたからな」


タッカーが笑う


「お前だって同じだろ!」


「違いない」


三人は再び笑った


やがてミークニーが茶碗を置いた


「……あの頃は、できることが本当に少なかったですからね」


その声は、先ほどより少し静かだった


「止血して、傷を縫って、手に入る薬を使う。それでも助けられない人が大勢いました」


ユーリイもタッカーも、何も言わなかった


彼らには、ミークニーが何を思い出しているのか分かった


「今は、あの頃よりずっと多くのことを知っています」


ミークニーは二人を見た


「ですが、知っているだけでは意味がありません」


「……そうだな」


ユーリイが静かに答えた


「だから、まずは見て回ることにしたんです」


ミークニーはいつもの穏やかな笑顔に戻った


「王国の医療が今、どこまで来ているのかを」


「よし」


ユーリイが立ち上がった


「じゃあ、明日は朝からだな」


「はい」


「今日はもう帰るのか?」


「ええ、そのつもりですが」


「だったら、下でパンでも買ってけよ」


タッカーが立ち上がった


「ちょうど新作ができたところだ」


「新作ですか?」


「アーダポルを使ったやつだ。なかなか旨いぞ」


「へえ、それは楽しみですね」


「おう、食ってみろ」


三人は事務所を出て、階段を下りていった


厨房からは、まだ焼きたてのパンの香りが漂っている


明日から始まるのは、王国の医療の現状を知るための小さな調査


それが何を明らかにするのか


この時の三人は、まだ知らなかった


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