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遺伝子の小さな箱庭  作者: 妙義 豊


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王と兵士

午後の王城


柔らかな陽光が窓から差し込み、広い一室を明るく照らしていた


部屋の中央には小さな卓が置かれ、その上には白と黒の駒が整然と並べられている


「チェックです」


メローペが静かに告げた


「ふーむ……」


イオネは頬杖をついたまま盤面を眺めていた


「これがチェスか……なるほど、面白いな」


「陛下、行儀が悪いですよ」


向かいに座るクラリス・ヴァイスフェルト宰相が呆れたように言う


「いいではないか、ここにいるのは我々だけだ。それに、身内だけの時は陛下呼びをやめろと言っただろう」


「分かりました、イオネ」


クラリスは一度頷いた


「殿下の前で行儀が悪いですよ」


「む!」


「ふふっ」


メローペが小さく笑った


「良いのですよ、ヴァイスフェルト宰相。いえ、クラリスおば様。それと、私もメローペでお願いします」


「分かりました、メローペ」


クラリスは微笑んだ


「ですが、あなたが甘やかすとイオネが調子に乗ります」


「分かった分かった」


イオネは渋々頬杖をやめ、姿勢を正した


「それにしても、本当に面白いゲームですね」


クラリスが盤上の駒を一つ持ち上げる


「駒ごとに異なる動きがあり、それぞれの特性を生かして戦う。単純なようで、なかなか奥が深い」


「うむ、これは癖になるな。細かな規則はいくつかあるが、覚えてしまえば難しくない」


イオネは盤面を眺めながら頷いた


「それにしてもメローペ、ずるいぞ。このような面白いものを持ち帰っておいて、我々に教えてくれないなんて」


「ごめんなさい、本当に忘れていたんですよ」


メローペは困ったように笑った


彼女が再びチェスを始めたのは、樹海から帰還して一年ほど経った頃だった


帰還後は何かと慌ただしく、娯楽品であるチェスの優先順位は低かった


「それに、盤や駒を量産できる目途が立つまでは、公表を控えようと思っていたんです」


卓上に並ぶ駒は、マースが一本のナイフを使い、木片から削り出したものだった


キング、クイーン、ビショップ、ナイト、ルーク、そしてポーン


一つ一つ丁寧に作られた駒は、素朴ながらも見事な出来栄えだった


その駒を見本として、リュシェンヌの実家であるフォルティエ商会の伝手を頼り、工房に量産を依頼していたのである


先月になって、ようやくまとまった数を確保できる見通しが立った


「なるほど、商売にするつもりか」


「はい。盤と駒を一組にして販売する予定です。最初は少し高価になるでしょうけど、いずれは庶民でも買えるようにしたいと思っています」


「これは間違いなく流行るぞ」


イオネは楽しそうに駒を並べ直した


「貴族の社交にも使えるし、軍の士官たちにも好まれそうだ」


「軍人には特に人気が出るかもしれませんね」


クラリスが頷く


「ただし、現実の戦争とは違って、兵士を犠牲にすればよいというものでもありませんが」


「ふむ……」


イオネは手元の駒を眺めた


「ところで、メローペ」


「はい?」


「なぜキングとクイーンなのだ?」


「え?」


「我が国なら、クイーンとプリンセスの方が自然ではないか?」


クラリスも興味深そうに駒を見た


「確かに、男性が王というのは奇妙ですね」


「昔は男社会だったみたいです」


メローペが説明する


「男の王が国を支配していて、女性はどちらかというと男性に守られる存在だったそうです」


「男が国を支配していた?」


イオネは眉を上げた


「それでは、王位は男が継いでいたのか?」


「はい。もちろん女性の君主もいたそうですが、男性が王になる国が多かったと聞いています」


「ふーむ……」


イオネはキングを摘まみ上げた


「ならば、なおさらおかしいではないか」


「何がです?」


「キングは一歩しか動けんのに、クイーンは縦横斜め、好きなだけ動けるのだろう?」


「はい」


「だったら、クイーンのこの動きはおかしいだろ」


クラリスが笑った


「男が王として君臨し、女がその王を守るために戦う。そう考えれば、筋は通りますけどね」


「それでは今の我が国と変わらんではないか」


「そうですね。むしろ男性の方が大切に守られるという点では、似ているかもしれません」


「しかし、キングを失えば負けなのだろう?」


「はい」


「王が最も重要でありながら、最も弱い駒というのも妙な話だな」


「弱いというより、失ってはいけない駒なのでしょう」


クラリスが答える


「そして、最も弱い兵士でも、最後まで進めばクイーンになれる」


メローペが白いポーンを手に取った


「そうなんです。ポーンは敵陣の一番奥まで進むと、別の駒に変わることができます。普通はクイーンにしますけど」


「ほう!」


イオネが目を輝かせた


「兵士が女王になるのか!」


「正確には、駒が昇格するということですけど」


「面白いな。身分に関係なく、最後まで進んだ者には相応の力が与えられるというわけか」


イオネはポーンを盤上に戻した


「なかなか夢のある規則ではないか」


クラリスが小さく頷く


「ええ、そうですね」


しばらく三人は盤上の駒を眺めていた


やがてイオネが顔を上げた


「さて、次はクラリス、相手をしてくれるか?」


「よろしいですよ」


クラリスが微笑む


「手加減はしませんからね?」


「こちらの台詞だ」


イオネも不敵に笑った


二人は駒を初期配置に戻し、向かい合った


「では、私からですね」


クラリスが白のポーンを進める


「うむ」


イオネも応じた


最初の数手は静かなものだった


しかし、やがて


「む……」


イオネの眉間に皺が寄る


「なるほど、そう来るか」


「どうしました?」


「いや、何でもない」


イオネはナイトを動かした


クラリスは少し考え、ビショップを斜めに滑らせる


「チェックです」


「む!」


イオネはキングを動かした


「では、こちらから……」


「それはできませんよ」


「なぜだ!」


「キングが取られてしまいます」


「……むう」


メローペは二人のやり取りを楽しそうに眺めていた


しばらくして


「待て!」


イオネが声を上げた


「待ったなしです」


クラリスは平然と言う


「まだ動かしておらん!」


「手を離しました」


「一度だけだ!」


「待ったは負けですよ、母様」


メローペまで笑いながら口を挟んだ


「お前まで!」


結局、数手後には


「チェックメイトです」


「……参りました。これでいいか」


イオネは渋々両手を上げた


「ありがとうございました」


クラリスが優雅に頭を下げる


「クラリスおば様、次は私とお願いします」


「ええ、もちろん」


「待て待て、私はまだ一度しか対局しておらんぞ」


「母様、さっき私とも対局したでしょう?」


「そうだったか?」


「そうですよ」


「……ふむ」


イオネは不満そうに腕を組んだ


その様子に、メローペとクラリスは顔を見合わせて笑った


王国の頂点に立つ三人


女王、宰相、そして第四王女


普段であれば国政や外交、軍事について語り合う者たちが、今は小さな盤を囲んで一喜一憂している


もし王太子アトラスまでこの場にいたなら、さらに賑やかなことになっていただろう


そんな三人の後ろには、メローペの側近たちが控えていた


オーレリアはいつものように澄ました顔で立っている


その隣では、アデルハイドが先ほどから落ち着かない様子だった


盤面を見ては、何か言いたそうに口を開きかける


そして、すぐに閉じる


また盤面を見る


「……」


「……」


オーレリアが横目でちらりと見る


「やりたいの?」


小声で尋ねる


「……少し」


「少し?」


「……かなり」


「ふふっ」


オーレリアは小さく笑った


その時だった


「ところで、メローペ」


イオネが突然口を開いた


「はい?」


「お前の騎士が、剣の乙女で優勝したそうだな」


ぴしっ


そんな音が聞こえたような気がした


オーレリアとアデルハイドが、同時に固まった


「え?何のことですか、お母様」


メローペは涼しい顔で答えた


「今回の優勝者は、カナリア・フランベルジュですよ?」


「ごまかさなくてよい」


イオネは盤面から顔を上げた


その目は、先ほどまでチェスに夢中になっていた母親のものではなかった


「相手が王国十傑とはいえ、負けていたらどうするつもりだったのだ」


視線が、アデルハイドへ向けられる


「……」


アデルハイドの背筋が伸びた


嫌な汗が背中を伝う


「わざわざ偽名を使い、変装までして身分を隠していたのだろう」


「……はい」


「それを自ら明かしたからには、それなりの理由があったのだろうが……」


イオネは一度言葉を切った


「お前は危うく、仕える王女の顔に泥を塗るところだったのだ。それを忘れるな」


「……はい」


アデルハイドは深く頭を下げた


メローペも黙っていた


自分の騎士の行動は、主である自分の責任でもある


イオネはしばらくアデルハイドを見つめていた


やがて、ふっと表情を緩める


「それでも、あのエルザ・ハーゲンに勝ったのだ」


「……!」


「誇るがよい」


アデルハイドが顔を上げた


「よくやりました」


クラリスも微笑んだ


「はい!」


アデルハイドの声が部屋に響いた


「うむ、よい返事だ」


イオネは満足そうに頷く


そして、何事もなかったようにチェス盤へ視線を戻した


「さて、クラリス。もう一度勝負だ」


「今度は待ったなしですよ?」


「分かっておる!」


「本当でしょうか」


「お前は昔から口が減らんな!」


「イオネこそ、昔から負けず嫌いですね」


再び部屋に笑い声が広がった


アデルハイドは、ようやく肩の力を抜いた


その横でオーレリアが囁く


「よかったわね」


「……ああ」


「それで、チェスは?」


「……やりたい」


「でしょうね」


二人は顔を見合わせ、小さく笑った


――


同じ頃


王都から少し離れた町の一角


タッカーのパン屋でも、二人の男がチェス盤を挟んで向かい合っていた


卓上に並ぶ駒は、王城のものと同じくマースが作ったものだった


ただし、こちらの駒は長年使われてきたせいか、ところどころ表面が滑らかになっている


「……ふむ」


タッカーが盤面を眺める


「これをこうして……」


黒いナイトを動かした


「よし!」


向かいに座るユーリイが、にやりと笑う


「チェック」


「……あ?」


「チェックだよ」


「ちょっと待て」


「待ったなし」


「まだ動かしてねえだろ!」


「もう手を離したじゃないか」


「くそっ!」


タッカーは頭を掻いた


しばらく盤面を睨みつけ、ようやくキングを動かす


ユーリイは迷わず次の駒を進めた


「チェック!」


「またかよ!」


「ほら、ちゃんと考えろって」


「考えてるわ!」


「だったら、もう少しまともな手を打てよ」


「うるせえ!」


タッカーは再び盤面を睨んだ


しばらくして、ユーリイが静かに告げる


「チェックメイト」


「……」


「俺の勝ち」


「……お前、本当に強いな」


タッカーが呆れたように言う


ユーリイは得意げに笑った


「ここの違いだよ」


そう言いながら、自分の頭を指さす


タッカーはその指をじっと見つめた


そして


「なら、俺が勝っても良いだろ」


「……は?」


「頭の違いなんだろ?」


「いや、だから……」


「なら、俺の方が勝つはずじゃねえか」


ユーリイは言葉に詰まった


その時


「にゃー!」


卓の下からエリザベスが顔を出した


ユーリイが笑う


「ほら、エリザベスも負け惜しみって言ってるぞ」


「……」


タッカーは黙って猫を見た


エリザベスは何食わぬ顔で毛づくろいを始めている


「……お前、どっちの味方なんだよ」


「にゃー」


「……」


ユーリイの笑い声が、パン屋に響いた


王城では女王と宰相が


町では元捨て石隊の男たちが


同じ職人の手による駒を使い、同じ遊びに夢中になっている


盤の上では、王も兵士もそれぞれに役割を持つ


そして、どれほど身分が違おうとも


勝負を決めるのは、駒を動かす者の腕次第だった


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